夢の世界へ 〜とりあえずつねっとけ〜

今日、ボクは11000円を鞄の外側のポケットの中の財布に入れて歩いていた。誰かがボクにぶつかった。その瞬間、ボクはスラれたことに気がついた。というか、その可能性をも否定できないな、と軽い気持ちで振り返ったとき、ちょうど彼の手がボクの鞄から離れるところであり、ポケットのチャックは、だらしなく全開になっていた。その男は走り出したが、人ごみの中、動けなくなった。おぼろげな記憶を辿るに、たぶん場面は駅の改札、それも阪急の岡本駅のような改札を出ると、下っていく、つまり駅が周辺で一番高い所に位置するような場所だったと思う。

ボクは、「スリだ〜!!」と叫びながら彼を追った。彼はこちらを凝視した。彼の真後ろで、彼の進路を偶然邪魔していた男が、ボクの声に気づき、奴の腕をつかんだ。奴は裸で握り締められた札のうちの大きいほう、つまり諭吉を彼に渡し、見逃すように頼んだ。彼は数秒、いや、0.何秒かだったかもしれないが、悩み、ボクの方をちらっと見たあと、逃げるように、走っていった。人ごみの中に見えた彼を見つけるのは無理だと思ったし、男はまだ1000円を持っているので、ボクは男に詰め寄った。

すると男は言い訳を始めた。俺の方が取り分が少ないのだ、と。彼は俺の10倍も持っている、と。そして、このような不公平の原因お前、つまりボクであると言い出した。彼は両手を同じように縦にふって、力説した。その肘から手先にかけて、いく筋もの筋肉は見えて、怖かった。握力を聞かずともその筋肉質な体は十分に強さを物語っていた。これも、おぼろげな記憶でしかないが、彼はボクよりも小さかったような気がする。ポジションが、ボクの方が駅より、つまり高い位置にいたのでそう思っただけかもしれないが、ボクの彼に対する印象はとにかく、「強そうや」だった。

ボクは泣き落としにかかった。3人で分ければいいじゃないですか、と。あなたが4000円とってもいいですから、3000円は返してください、と。ボクはもと持ち主なんですよ。とめどなくあふれる涙で、恐怖心が麻痺してしまったボクはなおも彼を攻めた。だいたい、・・・・・・・

ここで目が覚めた。というか、おかんに枕をひっこぬかれて、だるま落としのだるまよろしくすとーんと頭が落ちて、その衝撃で起きた。以前幽体離脱したときに比べ、別段汗も書いていないし、実はさほどリアルな話でもなかったようだ。無意識的な自分は、先の夢を、「夢」だとはっきり認識していたに違いない。時に夢は、無意識的な自分までもだますことがあるので、要注意だ。そういうときときボクはがばっと飛び起き、はぁはぁと肩で息をしながら、それが夢であったことに安堵する。もし現実ならと考え、怖くなる。しかし、その夢を思い出すとき、その矛盾した展開、早すぎる状況変化に気づき、もっと早く夢だと気づけばなぁと、思う。

これはボクの「夢」でもある。夢のなかで、それが夢であることを知覚する、ということだ。例えば東京タワーにいる夢を見たとしよう。もしもそこでそれが夢であると気づくことが出来たなら、ボクは迷わず飛び降りる。飛び降りるという経験はおそらく一生できないし、できたとしても、一回きりで、その感想はHPに載せられそうもない。そういうことがなんでもできてしまいそうな気がするのが、夢なのだ。もしも、自分が女である夢を見たなら、迷わずSEXしにいくだろう。とにかく、実現不可能で、想像できなくはないことを率先してやりたい。

では、どうすれば夢を知覚できるのだろうか?。これは昔から有名な方法がある。ほっぺたをつねるというものだ。夢の中では痛みは感じないはずだから、痛ければ現実、痛くなければ夢、ということになる。ボクはこの方法を使うべく努力した。大抵は朝目が覚めて、「しまった、またつねり忘れた」と嘆くのだが、成功した例もある。

夢のくわしい内容は忘れたが、夢のくせになんの変哲もなかったと思う。ふとほっぺたをつねってみると、痛くない。これはおかしい、夢なのかと思いいろいろとつねってみるが、痛くないんだけど、痛いような気もする。何がなんだかわけがわからない内に目が覚めた。最後まで何の変哲もなかったが、夢の知覚とまでは行かずとも、夢への疑いまでは行ったことになる。しかしそれ以後そのような成功例はない。

夢の中でほっぺたつねった感じというのは、麻酔をかけられた状態と同じだと思う。ボクの「入院日記」の中にこういう記述がある。

〜麻酔のおかげで痛くはないが、自分で見えるから痛々しい。痛くないが、「痛っ」と言ってしまう。痛いのは体かもしれないが、それを感じるのは脳だ。心だ。だから痛みが視覚を通じて感じられるのだから、声に出しても悪くはなかろう。とはいえ、「痛い」わけではない。不思議な感覚だ〜

まさにこんな感じ。痛くはない。しかし痛いはずという先入観から痛くないわけがないと思い、そう言われてみると痛いような気もするなぁという感じだ。だからほっぺたをつねって夢を知覚しようとする場合、それは想像よりも白黒をはっきりつけられる手段でないことを知る必要があると思う。それをふまえた上での先の方法は、有用であろうと思う。

夢の知覚を達成し、夢の中で自分の理想郷を作り出し、現実ではできないようなことをやりまくれたら、それはまさに「夢のような世界」だと思う。ボクはその世界へのキップを手に入れるべく日々頑張っている。仲間を募集中だ。みんなも簡単にできると思う。「夢かな?と思ったらほっぺをつねる」これだけで、夢の世界へのキップを受け取る権利は、あなたにも、あるのです。


ところで、夢の中の自分とはいったいなんなのだろう?。ボクはそれは、無意識の自我だと考える。人間は多重人格者でなくとも、必ず二人分の人格を持っていると考える。一人は、体の各パーツ(手足や内臓)を統括し、また自己認識する、意識的自我である。これを書いているボクも、これを読んでいるあなたも、この一人目、つまり意識的自我だと思う。二人目は、常に弱い力ではあるが意識を持ち続け、意識的自我が弱まったときに姿を現す、無意識的自我である。

今から両者を比較する。これはあくまで持論であるので他言すると一笑に付されるのでご注意を。前者すなわち意識的自我は脳の一割も使っていないと聞く。つまり、首から下全部と、脳の1割ほどで構成されるのが意識的自我である。この自我は、日常生活を行う際に体のパーツを使うので、それを休めるために、夜眠る。思うに、夜寝れば回復できる程度の動きが、昼できる限界だと思う。初心者が長距離を走れないのは体力がないからだが、それは長距離をあまりに走ると夜に回復が間に合わないと脳が判断するからではないだろうか?。練習し、鍛錬するということは疲れにくくするということであり、回復量の限界に達するまでの走れるキョリが伸びるのは当然のことだ。

横道にそれてしまったが、とにかく意識的自我は、昼の間の行動での疲労を回復すべく、寝る。それに対し後者、つまり無意識的自我は眠らない。脳の残りの9割程のうちの何割かのみでおそらく構成されていると思う。体のパーツを直接支配していないのでそれらを休める必要もなく、したがって眠りもしない。常に存在する。しかし昼は前者の意識的自我の方が強いので、それに覆われる形でそれの下に位置しているのではあるまいか。

そして、夜になり、意識的自我が眠りにつくと、無意識的自我は脳を占領することになり、夢を見る。意識的自我が得た情報(見たもの、聞いたものなど、いわゆる経験)は、脳の中の書庫のような場所に保管され、無意識的自我はそこから本をとりだし、それに基づいて世界を作るのではないか。もちろんその本の中には、希望・願望・想像・妄想もある種の情報として記されていることだろう。もしも両者が共有できる書庫がないならば、ボクらは夢の中で夢か現実か分からないわけがない。あきらかに異質なものであるからだ。

ここで、夢から覚めるというのは、無意識的自我が繁栄している最中、突如として意識的自我が目覚めるという現象だと思う。無意識から意識へと主導権がかわるその微妙な時期が、「寝ぼけている」状態だ。そして、その移行時の初期、つまりまだ意識的自我が弱く無意識的自我が強いときの無意識的自我が作り出した世界を、意識的自我は感じながら、増幅し、バトンをもらう。これが、夢の記憶であり、「今日〜な夢を見た」というのはこのことではないだろうか。

おそらく意識的自我が完全に眠っているときの夢は覚えていないはずだ。なぜなら覚えているとかいうことを考えるものが、意識的自我そのものだからである。だから先にも述べたように、夢の記憶というものは、無意識的自我が作り出した世界のうちの、意識的自我が復活しはじめてから目覚める直前までの世界だと思う。何度も夢を見るのは、何度も意識的自我が目覚めているからではないだろうか?


無意識的自我についてもう少し言及しよう。潜在意識と言い換えておそらくなんの支障もないのだろうけど、これも一つの自我であり、これといわゆる普通の自我とで人の精神は成り立っていると思うのでここではこの名で通すことにする。さて、この自我は、もう一つの自我の下に位置するとはいえ、ずっと存在していると思う。だから、一つの自我に見えて実は二つの自我が並走しているのではないだろうか。

例えば今もそうだが、勉強しないといけないな、と意識的自我は考える。体に命令を下し、ボクは机の前に座る。ペンを握る。ノートを開いて準備万端だ。「勉強しよっ」と声に出す。が、しかし、進まない。この現象を素直に考えてみよう。あまりに不自然ではないか?。自分はしたがっているのに、出来ないというのは何たることか。よくある現象なのでこんなもんと言ってしまえばそれまでなのだが、非常に奇妙だ。一つの自我ならば、それをしようと思えば、すればいい。それを拒む何かが存在するのだから、もう一つの自我、つまり無意識的自我が存在すると思う。

大抵の行動は両者が並走していて、何の支障もなく進むが、こと勉強などの話になると、両者の足並みがそろわず、結果として遅々として進まなかったりする。ということは、全てにおいて、人生を能率よく生きるには、意識的よりもむしろ無意識的自我の発達が重要なのではないか。いや、両者の共存こそが大事なのかもしれない。前者は教育され育つもので、後者は磨くものだ。滝にでもうたれりゃ強くなるだろう。

夢の知覚の話にもどる。夢の中でほっぺたをつねり、そのことを知覚したとしよう。その瞬間、意識的自我は目覚めている。妙に現実的になるのはそのためではないか?。そして、その知覚への確信が高まれば高まるほど意識的自我は強くなり、眠りは浅くなる。そして目覚める。脳の中の目覚し時計と言ったところか。粋だぜ。

ということは、夢の知覚はかなり厳しいことになる。夢を知覚すると、意識的自我が目覚め、そいつがいろいろ考えるから、空想の世界はより現実に近いものとなる。知覚しようとすればするほど、現実と夢とは近づいていき、夢の終点は近くなる。とすれば、ボクの残された最後の頼みは、知覚した瞬間である。その瞬間にしたいことをするしかない。しかし、迷った状態でだ。確信すればジ・エンドだからだ。それじゃぁ夢の知覚になっていない。世の中そんなに甘くはないね。

でもボクは挑戦し続ける。以上の意味分からん議論はとりあえず無視して、自分のやりたい放題の世界に突入すべく、今日も装備は完璧だ。以上まとめまして、これだけは言わせてください。

とりあえず、つねっとけ!