ナースの皆様

ボクは多くの人を尊敬している。浅い付き合いの友人とのたわいのない会話の、さいりげない一言に敬意を表することもしばしばある。そしてまた、世の中不条理だとは言うが、本当に頑張る人は、絶対世の為になっており、感謝されるばきだと思う。だから、マジで寿司にぎっておっちゃん、気合入れて釘打つ大工さん等、みな等しく素晴らしいと思う。彼らが支えるこの日本に住まわせていただいている、という思いを忘れてはいけないと思う。

しかし、この世の中で、ボクの偏見なのかもしれないが、無条件に尊敬してしまう職業がある。看護婦(看護士)さん、だ。ボクが「入院日記」の中でホントに言いたかったのはこのことなのだが、そのことについて言及できなかったので、ここで言いたい。

入院してみて初めてわかったことは、命の重みと、それを支える人の重要さだ。医療に携わる人といえば、まず医者が浮かぶだろうが、実はボクの印象としては看護婦さんの方がありがたかった。医者は診察の時間以外では顔を合わすことはなく、自分の体を託すべき絶対的なものという感じだった。それに対し看護婦さんは、朝夕問わず患者のために走り回り、普通の人ならば絶対に嫌がるであろう仕事をこなす。しかも、笑顔を絶やさずに。

何度看護婦さんに助けられたことだろうと思う。夜中痛くでもだえるとき、ボクはなんの躊躇もなく呼び鈴を押した。窮地にたたされたボクに他のことは考えられない。夜中3時、普通の人はいい夢見てるその時間に、彼女らはスリッパをパタパタと鳴らしながら走ってくる。

「どうしましたか?」決まってこの文句で始まる。「痛いです」と、さも自分が地獄を味わっているかのごとく顔を歪め、愛想なく言う。「じゃ、鎮痛剤打ちますね、今日まだ一本目ですよね?」とカルテを見ながら彼女は言った。そしてベッドのライトを付けて注射をしてもらう。すぐに痛みはやわらぐが、さっきまで痛みとの葛藤を演じた体は汗を噴き出し、ボクはへとへとだ。

「お大事に。」決まってこの文句で終わる。ボクはつれなく「あ、はい」としか言えない。脱力し横たわるボクにやさしく布団をかけた彼女は、軽く微笑み、詰め所へ戻った。数分後、また彼女はパタパタとスリッパをいわせながら走っていた。

元気になって思うことは、看護婦さんたちへの感謝、感謝、感謝である。退院後ボクは詰め所へ感謝の手紙を出したけれど、それではものたりないくらいに未だ感謝している。ボクはしてもらわなかったが、もっと重病人となると、下の世話等もあるだろう。大変だと思う。進んでやりたい仕事ではないはずだ。

風呂に入れなかったボクの体を、熱い蒸しタオルで拭いてくれたのは、母と看護婦さんだ。何日も風呂に入らず臭いであろう体を、ボクを励ましながら拭いてくれた。彼女は、自分の入退院を繰り返していた過去にボクを重ね、心から元気になるよう願ってくれた。

この世に生を受けてから早くも、18年が過ぎようとしている。多くの人の努力の上に自分は立っていると思う。ミサイルが飛んでくるような危険性もなく安心して暮らせているのはなんだかんだいって今、そして過去の政治家の努力によるものだろうと思う。ボクらは時にそれらを忘れ、唯我独尊のぬるま湯につかってしまう。そして排他的になり、人を傷つけ、自分までも傷付けてしまう。

常に感謝の気持ちは忘れたくないものである。ボクの場合特に、あの看護婦さんへのこの気持ちは、死ぬまで持ち続けていたいと思う。そして看護婦と聞くと、無条件に尊敬の念を抱いてしまうのだ。

ボクは、自分の彼女が看護婦だったらなぁと思う。人の痛み、弱さを分かるコだと思うし、その献身的なところにボクは強くひかれる。その大変さをボクは十分に分かっているつもりであるから、ボクに対し愚痴をこぼそうがつらく当たろうが構わない。ボクにはそれを受け止めるだけの強さと余裕がある。ボクは彼女の人を救いたい気持ちを尊重し、彼女がそう思うことを誇りに思うだろう。

これだけの激務をこなしながら、看護婦の社会的地位が高くないのは何故?。イギリスを見習って欲しい。しかしここに、看護婦さんを心から応援しリスペクトしているものがいるということを誰かに知ってもらいたくて筆を取った次第であります。ほんま頑張ってな、ナースの皆様♪