一人の少女から 〜生きる意味とは〜

今日とあるTV番組を見た。プロジェリアという難病を背負って産まれたカナダの11歳の少女、アシュリーちゃんのドキュメントだ。再放送だったので見た人も多いんちゃうかな?。プロジェリアとは頭脳は明晰なまま肉体が通常の10倍の速さで衰えていってしまうという病気です。記憶が曖昧だけどたしか800万人に一人の難病だそうです。アシュリーちゃんは11歳なので肉体年齢はもう、100歳を越えています。一般の老人と同じで心筋梗塞、関節の痛み、白内障などの病と戦っています。特に心筋梗塞は死に直結するため、精神的な負担にもなっていると思いう。VTRで見るアシュリーちゃんは老人そのものです。髪はすべて抜け、歯もほとんどなく、白内障ゆえいつもメガネをかけています。そして、ものすごく小さいです。見た感じだと1mぐらいか、もしかしたらもっと小さいかもしれません。

そんな彼女も話すと11歳の少女、年頃です。とても可愛らしい声で、その外見とのギャップにこのプロジェリアという難病が確かに存在するんだなと再認識するといった具合です。アシュリーちゃんには無二の親友がいます。クレアちゃんといって、いつも一緒に帰ります。朝は間接等の痛みにより学校へはお母さんに送っていってもらうんですが、帰りはそのクレアちゃんと一緒に雑談をしながら帰るのが楽しくて楽しくてしょうがないので、少々の足の痛みを我慢して家まで帰ります。クレアちゃんはアシュリーちゃんの家に行ってクッキーを焼いたりしています。11歳の女の子ならあたかも当然のように思える光景ですが、アシュリーちゃんにとってはそうではありません。生まれたときから短い人生を運命付けられたアシュリーちゃんにとって、一日一日は本当に大切なものなのです。クレアちゃんと一緒にクッキーを焼き、バター入れすぎなんじゃない?とお母さんに言われる・・・そういうことが当たり前ではないのです。

僕たちは奇跡の連続の上に存在し、今、命の火を燃やしているんだということを、分かっていないような気がする。その番組のナレーションでも言っていたが、全動物の中で、人間だけが己の将来における死の存在を知覚し、恐れる。だからかどうかは知らないが、人は親から子へ、子から孫へと何かを伝えていく。それが人という種として、親世代と孫世代の中間層として、橋渡し的存在と書くと語弊が生まれそうだが要するに「人類」としての元来の役割であり使命なのではないだろうか。自分の直径の子孫を残すことだけが人類としての勤めではないと思う。これからの世代へ、同世代の仲間へ何かを伝えていくということこそに僕は生きる意味を感じる。そういう意味でアシュリーは確かに僕らにメッセージを伝えてくれたと思う。生きる意味ってそんなにすぐ分かるものじゃない。でも、生きていることの奇跡に感謝し、毎日を懸命に生きるということの大切さを教えてくれたと思う。

アシュリーのメッセージの中でさらに僕に深い印象を与えた言葉が2つがある。1つは、「生まれ変わっても自分になりたいかって難しい問題だけど、私は多分また私を選ぶと思う。だって私は私を愛しているから。」というものだ。自分が自分であることを愛するアシュリーはとても心優しい女の子へと成長した。飼っていた虫に元気がないと知るやいなや即座にスポンジを水に浸し看病を始めるほど。自分を愛せる人は他の人も愛せる、とはよく言うが、このフレーズにより深い意味での理解があることを、その段階での理解に到達して初めて気がついた。自分を愛せる人は、1つ1つの命を大切にする。そして、それは周りへの思いやりとなり、少々話しは飛躍するかもしれないがそのことが世界平和にまでつながるのではないかと思う。孔子は家族愛から同心円を描くように国全体へと思考の枠を広げたが、それに近い発想だと思う。そしてその自分を愛する力は親によってもたらされるのだと思う。親からの掛値ない無尽蔵な愛を浴びるように受けた子供は自分を愛し、周りも愛するのだ。極論で恐縮だが、世界情勢の乱れる今、親一人一人の子供への愛情が世界を変えると、僕は思う。

誰にだってコンプレックスはあると思う。かく言う僕もコンプレックスって持ってる。時々自分がイヤんなって、人生やり直してぇとか思う。けど、それって自分をぜんぜん愛せてないんちゃうか?って思う。メールである子にも送った話なんだけど、今僕は生まれたときから幾度となく突きつけられた選択肢を、自ら選んできた。たしかに物心つくまで、いや、ついてからも心理的離乳が完成するまでは両親にその選択の多くを頼ったかもしれない。しかし僕はそのとき両親に選択してもらうことを望んでいたはずであり、後悔はしていない。今だなお突きつけられる人生の選択肢は、時にこれからの人生を大きく方向付けるののであったりする。しかしこの道は一歩一歩僕ら自身が選んできた道じゃないか。泣く泣く未来の可能性を断った選択もあったはずだ。しかし、最終的には、この道の未来を拓いていこうっていう決意の連続・積み重ねの結果として「今」を生きているんじゃないか?。勇気をもって、ふりかえらずに前を見据えて歩こうではないか。だから、僕は自分の人生を後悔しない。否、後悔しないよう未来が明るくなるよう「今」を生きたい。

僕が感銘を受けたもう一つのアシュリーの言葉は、「私は悲しむところをみんなに見られたくない。みんなにハッピーになってほしいから。」である。人のもっとも恐れるものは「死ぬこと」と「孤独なこと」だと思う。僕は昔入院したとき最悪の場合死ぬことがあるのかどうかが気になってじょうがなかった。死ぬことさえなければどんな痛みにも耐えられる、そんな気さえした。また、「人類」は現在地球で最も反映しており、自然を牛耳り、生物界のトップに君臨する最強の化物だが、「人」は精神的にも肉体的にも一人では生きて行けない、まさに「葦」だ。だから人は「死」と「孤独」に一番敏感に反応する。そんな中、アシュリーは何万人に一人しかいないという孤独と、常にまとわりつく死の恐怖の中で生きているわけで、ナレーターがうざいほどに繰り返していたが「過酷な人生」なのだろう。(俺はなぜかは分からないがこの「過酷な運命」を連発するナレーションが気に入らない。なんか違うと思う。)でも彼女は弱音を吐かず、文句を言わず、笑顔を皆にふりまく。そんなアシュリーはサンタクロースに扮し、クリスマスの日に小児病棟に行った。こんな日にさえ家族のもとに帰れない子供たちへお小遣いを貯めて買ったクリスマスプレゼントを届けるためにだ。もう、僕が多くを書くまでもない。この事実だけでも彼女のメッセージは十分に伝わるだろう。

この2つのフレーズに込められたメッセージは幾分かオーバーラップしている。前に「今」生きて欲しいという趣旨の文を書いた(コンテンツ「心1」の「命の話」)が、それと近い内容もあったので僕はこのオーバーラップした2つのメッセージにかなりの感銘を受けてしまった。アシュリーが何故取材に応じたのか?それは、プロジェリアについて知って欲しかったから、そして彼女の想い皆に伝えたかったからだと思う。そしてそれを見た僕も、このメッセージをみんなに伝えたいと思った。そして、記録として残し忘れないようにしなくちゃと思った。だから以上の文を書いた。一人でも多くの人にアシュリーの想いが届けばいいのになと思います。純粋な想いは空気抵抗を受けにくく、どこまでもはばたいていける、そう信じています。