死刑 〜皆も一緒に考えよう〜

  刑とは・・・とりあえず広辞苑を紐解いてみる。「生命を絶つ刑罰」だそうだ。そのまんまだ。さて、よく話題にされ、またディベートの題よるこの議論について今回、考えてみたい。事の発端はとある友人 の書いた テキストだ。それは俺に大きな根拠を与えた。 俺も考えなくては・・・という想い。法の下の平等という表現があるようにわれわれは法によって守られている。しかし逆に法を支えているのがわれわれだとも取れる表現だと思う。法という広大な「概念」をわれわれ一人一人が支えているって絵を想像してほしい。それでこそ「法の下の平等」という表現は生きると思う。つまり要は、みんなもこういう「俺たちが俺たち自身の頭で考え、結論を出さなくてはいけない問題」について考えてみよーぜということだ。最後にもっかい繰り返すけどね。

先ずは罪人から見た「死刑」について。初めに断っておくけど、死刑囚も「人」なんだから「生命の保障」はされて然るべき、という考えは俺には全くない。たしかに刑務所とは「更正施設」だ。更正して社会に戻った人はある程度皆と同じ権利を有するべきだとは思う。しかし、服役中は「個人・社会」を傷付けた者、として謙虚に社会の掟に準ずるべきだと思う。つまり、罪人にはキツイ言いようだが、「黙って受け入れるしかない」のだと思う。当然、最低基準がないわけではないが、一般人のそれに比べ、罪人のそれが大幅にダウンすることは否めないと思う。よって、罪人からみた「死刑」についてはあまり考察しない。強いて言うなら、罪に深さに気づいた罪人は素直に極刑を受け入れるだろう、そして罪の深さに気付かない罪人は文字通り「死んで詫びる」ことになるだろう。あくまでも罪人から見た「死刑」の話だが。

次に社会(一般の人及び被害者遺族)から見た「死刑」について考える。これは重要だ。圧倒的多数が関わる上に、その母体数の多さゆえ、多種多様な意見があるからである。ここでは俺の思いつく分だけも書いていこうと思う。他にもあったら教えて下さい。先ずは死刑制度反対意見の理由からいこうか。

その1:いくら罪人とはいえ「殺す」のはいかがなものか?

主体が社会に変わったのでこの問いは意味をなす(一見同値に思いがちだが、「罪人とはいえ生命の保証はされるべき」とは根本的に違う問いだと俺は思ってる)。ヨーロッパで死刑がないのはこの理由によるものが大きいと思う。ヨーロッパには宗教がある。つまり「神」がいる。人は「神」から生まれたのであって、罪人とはいえそいつを殺すのは「神への冒涜」に当たると思うからではないだろうか。日本は基本的に無宗教(もともと多神教な上に今日では、死んだらお墓に入るのに、クリスマスにはサンタを待ったりするような交じりあった宗教感を持つ)だから、この申し訳ないと思う対象の「神」が存在しない。少なくとも明確にイメージする「絶対神」はいない。だからこの理由は残念ながら日本では、死刑廃止にまで到達していない。が、やはり「人として」ダメなんじゃないか、という想いは自然に出てくるものなのだろう。

その2:冤罪の時どうしようもない点

例えば、最後の最後まで自分は無実だと言い張った罪人が死刑に課せられたとしよう。罪人は泣きながら、最後まで身の潔白を主張しながらその生涯を終えた、いや強制的に終了された。数年後、実は冤罪だったと発覚。警察側はどう対処するのか?金で済まされないことは明らか。そして何よりも、警察という組織そのものが殺人犯となって社会は混乱するだろう。こんなことが起きる可能性はきわめて低い。0に近似的である。しかし近似してはならない。きわめて低いが実際に冤罪は起こっている。事実、1審で死刑宣告を受けた後、釈放されたケースもある(今日図書館で調べてきた)。起こっている以上、この危険性を無視するわけにはいかないだろう。「原子力の話」 とも少し関連する。

その3:仮釈放無しの無期懲役でも社会の安全は保障される点

冒頭の友人も言っていたが、やはりそうなのだ。社会にとっては、出てきたら困るんであって、犯人は死ななくてもいいのだ。実際問題、どんな凶悪犯だって数年すれば記憶から遠のくものだ。そのまま地味に刑務所で一生を過ごせば(一応、社会の為に働く)それで一般人は満足なのだ。その点で、死刑は意味がないと言えるだろう。しかも、死刑を廃止したら「っしゃー、これで死刑はねーべ」とかいって殺人犯が増えたりするだろうか?もしそうなら、ヨーロッパはたいへんなことになってるよ?連続殺人犯ってのは脳の前頭葉の部分の機能が低下してて、善悪の判断がつきにくい人に多いらしい。そういう人がわざわざリスクまで計算して罪を犯すだろうか?否、そんなことはないはずだ。そもそも、正常な判断が出来る人は人を殺したりしない。万引きだってそうだ。リスクとか考えんやろ?3日自宅謹慎ぐらいならえっかーとか思わんやろ?ようは、罪を犯す時ってのは衝動的。よって死刑の存在が犯罪を抑制しているとは考えにくいということだ。

次に死刑制度賛成派の理由として考えられるものを挙げよう。

その1:被害者側の意見の尊重

身内・恋人・友人を惨殺されて冷静でいられる人なんていないだろう。「犯人を殺したい」と思うだろう、ぶっちゃけ。しかしその実、遺族は無力だ。刑務所という砦に入った罪人を殴ることも、罵声を浴びせることさえもできない。唯一つ出来ることが、裁判。その裁判で結果をだすことだけが、被害者側の合法な「リベンジ」なのだ。となれば、刑事罰の頂点に「極刑」が存在するということはある種、被害者遺族の心の支えになっているのではないだろうか?その罪人が実際に「死刑」を執行された時にどう思うかは分からない。分からないが、殺された被害者の仇を討つべく裁判に乗り込む遺族にとっての「極刑」の存在は大きいと思う。

今の俺にはこれくらいしか思いつかない。他にも「未来のない日々の繰り返しに終止符を打ってあげる」とか「コスト削減・刑務所が満杯」とかもあるが、前者は「罪人は自分の死を自分で決められる(尊厳死)わけではないし、日々単調であっても生きる意味を見出すのはヒトの最大の得意技やと思う(事実、生涯を読経に捧げる尼もいたはずだ。彼女が死を望んでいたとは思えない。たとえ強制的であっても、その限られた場所で何かしらの作業に勤しむことは生きる意味になりうると思う)」し、後者は「そもそもそんなに死刑囚であふれてるわけじゃない!(死刑を廃止したところで焼け石に水だ!)」と思うんで、俺的には先の1つだけです。

以上まとめて俺は今のところ、「死刑制度」に「反対」します。総合的に見て、廃止した方がいいと思ったからです。俺が賛成派の意見として挙げた一つの理由の重さは、「被害者側」にしかその本当のところは分からないと思う。この重さをわからないから俺は死刑に反対するのかもしれない。しかし今、考えて見たところ、「反対」なのは事実だ。話はかわるが日本人は「玉ムシ論法」を得意とする。つまり白黒つけずにグレーな決着を好む。俺はこれが好きだ。例えばA君がB君を恨んでいたってゆー話と、A君はB君を尊敬していたってゆー話があったとして、外国人はどっちか一つに決着をつけてほしがるらしい。しかし俺は「その中間やろ?」という折衷案が嫌いではない。人間、そんなもんやと思うから。その割合は分からないが、二つの感情が入り混じっていた可能性は多分にあるからだ。だが、だがである。死刑問題を「玉虫論法」で片付けるわけにはいかんだろう。意味不明やろ?。「賛成と反対のまぁ、なんだ、中間ですね」とか言われたら、殴ってまうやろ?でも、そういう人が多いんちゃうかな。なんも考えてないんは「真ん中〜」ってゆーてるんと同じやからな。オセロみたいに白が黒になったり黒が白になってもいい議題やと思うねん。もともと、本当はどっちが正しいかなんて分かるはずもない議論なんやから。ただこういう議題にたいして、自分なりに考えて、その時その時の自分の立場を持って置くことは大事なことやと思う。だからみんなも一緒に考えよーぜー。ばいば〜い。