男のものさし 〜正義の名の下に〜

僕は灘高校で6年間過ごしてきたが、そこで学んだ最大のことは、数学でも英語でもなく、一人の人間としての行き方だったように思う。学年主任だった西川師匠は常々「男のものさしを持て」とおっしゃられた。一人の男としての、すなわち自分自身の善悪の判断の尺度をもち、それで物事を計れ、という意味だ。在学中、そして卒業してからもこの言葉は座右の銘として僕の隣に居座っている。

きちっとした男のものさしを持っている人は「良心」の働きにより日々の行動が正しい方向へと修正されていくと思う。その良心をはばむものが欲望だったり、世間の波(いわゆるノリ)だったりするわけで、人は弱い生き物だから、時にそれに負けてしまう。そういう時でもきちんとしたものさしを持っている人は今度は「罪悪感」が働いて、その後の行動が正しい方向へと執せされていくと思う。そして、そういう人は自分自身の行動に自信を持っているから、人もついてくるだろうし、自分の理性に反する他人の行動を見たときに、臆することなく「正義の名の下に」、注意することができる。俺はそんな男になりたい。

以上のようにみると、このものさしはとてもよくできた機構を構成することが分かる。良心と罪悪感の二重構造、一粒で2度おいしい。こんなにも有用な「ものさし」だが、もちろん実体はない。かといって虚空のものでもない。我々の頭の中にたしかに存在する、一種のイメージ、プログラムだと思う。そもそもはこのものさしはとても短い、いや、その目盛りがとても荒いというべきか。つまり、小さい頃は善悪の判断があまりつかなかったはずだ。「人を殺してはいけない」とか自明っぽい事柄についての善悪の判断こそできたものの、ちょっと複雑になると、「なんでダメなのか分からない」状況に陥ったり、分かっていても自分のわがままを通したくて、お母さんに怒られた経験は誰にでもあるはずだ。

ところで、一見自明に思える「人を殺してはいけない」という命題は、なかなかに難解である。「緊急避難」と呼ばれる状況がある。例えば、雪山でAさんとBさんが遭難していて食料も残りわずかだとする。このとき、AさんはBさんの食料を奪って生き延びようとしてもこれは合法なのだ(多分、そうだったと思う)。はたしてこの状況におかれた二人の体調が同程度だったとして、どのような状況が想像されるだろうか?相手の食料を奪うことは確実に相手の生命をも奪う、殺人行為だ。しかし自分が死ぬかもしれず、社会も認めてくれている。はたして殺るべきか?。

正当防衛についてもまた然り。どちらも冷静な状況判断をしている場合ではないとはいえ、ふと立ち止まってみると、出口の見えない迷路に迷う自分を発見することになるだろう。「殺していい・・・の?」。宗教によってはいかなる場合も殺人はタブーなものもあるだろう。というか、その方が分かりやすくて普通だ。しかし、現代社会と比較して、どちらが正しいとは一概には言えないし、論争する気もない。それぞれがそれぞれのものさしで生きているのだから、あえて自分のものさしを全ての人に共用する必要はない。権利もない。基本的にものさしは、対象年齢3歳以上、一人用、だ。

閑話休題ー、どのようにものさしは構築されていくのだろうか?それは周りからの「教育」と自分自身による「判断」によるものではないかと考える。幼少の頃、つまりまだものさしがただの竹の棒であったころ、最初の目盛りをきざんでくれたのは父であり、母であった。その後、小中高の先生や、近所のおばちゃん、友達などにも目盛りをきざんでもらったなら、目盛りのバラバラないろんなモノサシを持つことになるだろう。だから青春期はゆれうごくのだ。同じ物事について、自分のもってる社会の常識なるものさしと、他にもってる友達どおしで目盛りをきざみあったものさしとが食い違ったりして、混乱するからだ。社会は絶対ではない。しかし、強敵であることに変わりはない。だから悶える。もがきながら必死でものさしを統一していく。そして出来上がるのが、自分自身のものさし。

いろんな出来事を経験し、そのたび周りの助言を聞いたり、自分で考えたりして、目盛りを刻んでいく。いつか、全てのものがはかれるような無敵のものさしになるように。忘れてはならないのは、どの目盛りも消してはいないということだ。若気の至りで刻み間違った目盛りも、ちゃんと残ってる。でも、もうその目盛りで物事を計り誤ることは二度とない。人は過去を背負う生き物だが、過去は重いだけじゃない。時に、道しるべとなってくれる、大切な宝物なのだ。

ものさしとは、善と悪を判別するものだが、ここで、善悪とは何なのだろうか?。そういえば、偽善とは何なのだろうか?以下、僕なりの意見を述べたい。自分から他人に対する行為についてだとする。他人尺度で見た場合に、他人が幸せになる行為が善であり、不幸になる行為が悪である。そして、純粋にその行為をする場合、真。不純な動機でその行為をする場合、偽。すなわち真善、偽善、真悪、偽悪の4種類があると思う。真善は心から行う善行、けっこうなことです。真悪は心から行う悪行、だめなことっすね。今注目したいのは残りの二つ、偽善と偽悪。

まずは偽善から。多くの人が偽善に対して、マイナスイメージを持っていることない?。俺は本来偽善は、意味中立な言葉だと思う。似た例をあげるならば「差別」とか。これも「区別」と同義で意味中立な言葉なのに、マイナスイメージをもたれがち。最初に定義したとおり、俺にとって偽善とはあくまでも善行の一部だ。いわば真善はイデアのようなものであり、その影が、偽善なのだと考える。隣にいる好きな子にイイトコ見せたいから、電車でおばあちゃんに席をゆずる。理由はどうであれ、おばあちゃんはハッピーになったわけで、これは善行。詳しく言うと偽善になるけど。不純な動機なしに席をゆずる行為の尊さは誰もが知っていて、それは心にイデアとして存在する。だけど、気恥ずかしさとかいろいろあって、不純な動機の背中押しがないと、行為に移せないことが多々あるだろう。しかし、これはイデアの影、すなわち完璧なりんご(=イデア)ではないけれどもこれもリンゴだと思い、満足すべきではないか、と言いたい。簡単に言うならば、偽善万歳、どんどんやりましょーということだ。意味不明な人はプラトンイデア論を誰かに聞いてください。

次に偽悪。これはいわゆる「お節介」または「悪気のない悪」と呼ばれる類のものだ。一番たちが悪いともうわさされ、何よりも注意しなければならない事柄である。なんで問題なのかというと、冒頭から述べてきたように、自分のものさしが確立しかけの人ほど、偽悪をしてしまいがちだからだ。自分のものさしが完成しかけると、なんとなくそれで人の気持ちまで計れるような気がしてしまうらしい。これは勘違いだ。ものさしには使用上の注意として「ご自身の行動の基準にのに用いてください。決して人の心などを計らないで下さい」と書いてある。人の気持ちまで自分のものさしで計りだすと、自分的に善だから、あなた的にも善よねってゆー、とんでもない事態が発生しかねない。要するに、他人尺度にまで留意した目盛りづくりが大事ということだ。

以上まとめると、皆も心にものさしをつくろーぜ。偽善万歳。偽悪注意。皆がめいめいのものさしを持てば、きっと世界は平和になる。みんな、笑ってくらせる。笑われるかもしれないが、そのために今思いつくことはこれくらいだ。思いつくことからやろうと思う。俺らの世代から、変わっていこう。