HANABI〜散り方を学ぶ

 「散りたい」・・・そう思うことがある。ドラクエで言うならば、アバン師匠のように「メガンテ(自爆呪文)」を唱えて、いっそ消え去りたい・・・そう思うことがある。桜の花が舞い散るようにこの人生を美しく終えることができるとしたら、なんと幸せなことなのだろう。友人の母上と、「生きる」ということについて関西帰省中、語ったことがある。僕は「生きる」とは「伝える」ことだと言い、母上は「生きる」とは「死ぬ」ことだとおっしゃった。死ぬために生きる・・・一見逆説的に思えるこの文の意味するところのものは、散り行く桜を見れば納得できると思う。ひょっとして桜はそうやってただ美しく、風に身をまかせて散り行くために生を受けたのではないか、とさえ思えてくる。いや、散ることで若葉が芽吹き、そして生命は受け継がれてゆくのだけど、しかし、その舞い落ちる姿の優美さゆえか、散るために咲いた、との錯覚はまぬがれえない。

 同様に人間も死ぬ為に生きるのではないか、と思うときがある。もう9月、やかましかったセミも鳴きやみ、静寂とともに秋が日に日に僕らを覆う今日この頃。もう、花火なんて打ち上げられてないけど、今、心のスクリーンに焼きついた、花火の残像を思い描いてみてほしい。花火の散り様のなんと見事なことか。花火はその最後の時を迎えるべく、昇っていく。1秒たりとも寄り道せず、ただただ上を目指し、そのときを迎えると、散る。見事に散ったその火の粉は、華やかなる花となって人々の心に焼きつくだろう。花火は満足げに、僕を見下ろした。僕も花火のように、最期散りたい。もしも死ぬ為に生きるのであるならば、花火の生き様・死に様は最高なのではないか、そう思う。

 「生」と「死」は両極端なようで隣り合わせの概念だと思う。きっとメビウスの輪のように、表裏不可分な世界に存在する概念なのだろう。だから「生」を知るためには「死」を知らなくてはならない。しかし自分が生きているうちに自分の「死」を知ることは不可能。だから両親、友人、恋人の死、あるいは死刑宣告や余命の告知などで知る、近未来の自分の死、によって「生」を見つめなおし、「生」を知ろうともがくのだろう。分かるはずのない命題・・・それが「生きるとは何か」なのかもしれない。しかし何度も言うが、「生」を知ろうともがき続けることの意味はたぶん、計り知れないほどにあると、僕は信じてる。正解がない、ということは逆に言うとどれも間違ってないということだ。だから人それぞれの生きることへの感じ方があっていいはずだ。この命題に対する一義的な答えを求めるのは、理系のエゴだ。でも僕は理系だし、求め続けるつもりだ。

 さて、僕は「生きる」とは「伝える」ことだとやはり思う。桜も、花火も、伝えることで生きていたと言えるのではないか、そう思う。そしてその意味で、誰かに何かを(広義で)伝えたいと思う力、これすなわち生きる力なのではないかと思う。しかし一方で最期の時はそう、花火のように潔く散りたい。愛する人・大切な人をかばい、銃弾をあびて倒れるのなら、悔いはない。たとえ俺の先に前途洋々たる未来が待ち受けていたとしても、愛すべき人の命には変えられないし、変えたくない。いや、変えられないほどにその人を愛せたことを感謝し、運命の女神に「サンクス」といいながら、僕はこの世を去りたい。

 こんなドラマチックなことはないにしても、花火のように1日1日懸命に生きて、そして最期は潔く散る、これはひとつのロマンかもしれないし、野望かもしれない。生を軽んじるわけでは決してない。生きることの重要性はずっと語ってきたとおりだ。ただ、そうまでしても守りたいほどの人が、愛すべき人なのかな?と思う。まだ恋愛経験もほとんどないし、よく分からないけど、なんかそんな気がする。ラブ論については次回UPします。

 人生高々80年、僕らの世代は高々50年と言われている。いつ死ぬか分からないが、その時ぶ悔いのないよう、ただ上へ上へと進み(上昇志向のことじゃないよ、日々生きるって意味っす)、与えられた時を経ればはじける。例えばラクロス中、試合きつくてエグってる場合じゃない。常に東大ラクロス部のアタッカーとして、ゴーリーを睨み、その先のネットをゆらすことだけを考える。そういう生き様を目指したい。それが、花火の生き様だ。

 友人の母上の行った「生きる」とは「死ぬこと」だというのと「生きる」とは「伝える」ということだってのは似てることが分かった。以下理系のエゴを通させてもらう。「生きること」という複雑怪奇な、しかしれっきとして存在する無限次関数が存在し、それぞれの経験Xに対して、それぞれに値Yを算出する。僕たちはその結果だけを道しるべにその無限次関数を推測する。だから同じになるはずがない。でも似かよるのは当然。完全な正解が分かるはずはない。しかし一歩ずつ近づくことは可能。そんなものだと思うのだ。

 一人でも多くの人から一つでも多くのことを学びたい。そして、一人でも多くの人に一つでも多くのことを伝えたい。しばし、花火をお手本に生きます。