せんとうはん〜祖父を思う

 今日は、ある一人の男について話そうと思う。彼は徳島の脇町に生まれ、私の祖父にあたる人物だ。彼は教師だった。「せんとうはん」というニックネームで生徒からも慕われる教師だったと聞く。「せんとうはん」というのは脇町の方言で、先頭を行く人という意味だ。行動力の塊だった彼にぴったりのニックネームだ。ここで、彼の逸話を一つ。彼が住んでいた脇町は現在でも都市「徳島」から電車で1時間以上もかかる田舎である。従って人口も少ない。しかし、それゆえ、近所は身内みたいな感じだったのかもしれない。そんな脇町にもう足が立たなくなったおばあちゃんが居た。そのおばあちゃんがふと、「死ぬ前にいっぺんはあの山に登りたかったなぁ」と窓から見える小高い山を見ながら洩らしたらしい。それを聞きつけた彼はおばあちゃんを椅子に乗せ、なんとその椅子ごと抱えてその山(といって小山だが)を登ったらしい。彼はそのことを誰にも言わなかったが、そのおばあちゃんはその後天に召されるまで介護していた娘に彼のことを語り続けたらしく、その娘がおばあちゃんの死後、お礼を言いに彼の家を訪れたことで、公のこととなった。

 さて、彼は、第二次世界大戦の時にビルマに少尉として部隊を率いて赴いた。ご記憶の通り、日本軍はビルマで大敗を喫する。彼の部隊もほぼ全滅した。生き残った部下の一人と共に密林を歩いていたが、途中その部下もマラリアによって死に、彼自身死を覚悟したらしい。事実、彼もマラリアにかかっていた。ところが彼は奇跡的に日本へ帰還する。部隊は全滅との知らせを受け、すでに葬儀も済ませていたところへの突然の帰宅であったから、彼の母の驚きよう、喜びようは凄まじかったのではないかと思われる。死の淵にいた彼を奮いたたせたものは、「母を想う心」だったと後に彼は娘(私の母)に語っている。母一人子一人で育った彼にとって母親はかけがえのない人であり、母を置いて自分が先立つわけにはいかないと、ビルマのジャングルの中で倒れながら彼は思ったに違いない。

 ここで彼の逸話をもう一つ。彼はビルマの密林を抜け、日本軍の撤退用飛行機の到着場へたどり着いたわけだが、1機しかなかった。そこにいた生き残り全員でギリギリ乗れるくらいの小さな飛行機だったのだが、いざ日本へ発たんとした時、一人の女性が赤ん坊を抱えて走って来た。当然彼女らは飛行機には乗れないが、次の便が来る可能性は極めて低い。泣きすがる彼女に彼が一言、「わしと代わりゃんしゃい」。階級制度の厳しかった当時に、少尉がこれが最期かも知れない飛行機を降りるということは相当なことだったと推し量られる。この記事を書きながら思うのだが、もしかしたら彼は少尉という位だったからこそ飛行機を降りたのかもしれない。少尉がまだ現地で生存しているという知らせがあったからこそ、ビルマへもう1便、撤退用の飛行機がやってきたのかもしれない。名も知らぬ女性が一人赤ん坊を抱えて現地にいるというだけで、当時の日本政府が飛行機をビルマへ向けたかどうかは怪しい。この話は、後述の彼の伝記を編集する際、その女性本人が是非ともといって投稿して来て明らかになったものである。彼女はその記事の中で、「この恩を一生忘れない」と書いている。

 帰国後彼は、もともとやっていた柔道に加え、重量挙げ、相撲、レスリングを始めた。重量挙げにおいては全日本選手権で優勝、その後7回に渡って日本記録を塗り変えた。柔道6段になったのもこの頃である。また、体育教師としても尽力し、体操やレスリングにおいて、数々の日本代表選手を育てた。特に弟子の一人でレスリングで金メダルをとった人は彼のことを今でもよく口にしているという。またその人は現在アメリカで事業に成功しているらしく、後述の石碑になんと1000万円もの寄付をしようとしたらしい(実際には遺族=私の祖母がそんなにもは・・・といって受け取らなかった)。ちなみにその人は今でも日本を自転車で横断してみたりと、アグレッシブである。

 ここらへんで再び彼の逸話を書こうと思う。彼は不良少年の更生に力を入れていた。何人もの不良少年をスポーツに目覚めさせ(体育教師だったから)、更生していった。また、戦後の日本は本当に貧しかったらしく、ご飯もロクに食べれない生徒がたくさんいた。そういう生徒を家に呼んでは肉を食わせていた。彼は当時の日本にしては珍しく金銭的に豊かだったので(妻と共働きであったし)、可能だったのだろう。しかし、全ての少年が更生できるわけではない。一時はスポーツなどに情熱を燃やし、更生するも、何かの挫折で再び不良に戻る生徒もいた。さて、彼の死後、娘(=私の母)が都市徳島を歩いていた時、いわゆるヤクザに絡まれたらしい。名前を聞かれ「吉田」と答えるた途端、そのヤクザの顔が変わったらしい。「もしかして、せんとうはんの・・・?」と聞かれ、「そうです」と言うと、「自分はせんとうはんの生徒だった・・・」と語り出した。自分は吉田先生(=彼のこと)に本当によくしてもらって、一時は真面目に生きていたのに、気がつけば極道にいる。せんとうはんに合わせる顔がない・・・と、最期は号泣だったらしい。その人は彼が若くして死んだことも知らなかったらしく、それを聞き、ますます号泣したらしい。母曰く、「タクシーで家まで送ってもらった上に、みかんまでくれた」らしい。

 閑話休題ー。また、彼はアジア大会(戦争などの影響でオリンピックがなかった年)で旗手を務めた。1961年には内閣総理大臣から「スポーツ大賞」もいただいている。今日ではご存知「イチロー」などが貰った賞である。その後、彼は単身ドイツに渡った。柔道の師範としてである。彼はドイツの教育に感銘を受けたらしく、帰国後、日本の教育を嘆いたらしい。ドイツに赴任中に待望の息子(上の二人は共に娘)が生まれ、彼は帰国後その息子をたいそうかわいがった。オリンピック選手に育てると意気込んでおり、風呂上りは決まって彼が息子をオリンピックのタオルで拭くのが習慣だった。しかし1967年、不慮の事故で彼は帰らぬ人となった。若干48歳である。娘が15の時であり、息子が3つ4つの頃である。息子は父の記憶はほとんどないと言っている。母を思い、ビルマのジャングルで死の淵から生還した戦士も、お酒には勝てなかったらしい。結局、母に先立つことになってしまった。ちなみに母(つまり私のひいおばあちゃん)は、97まで生きたのだから、あの事故さえなければ彼は今も存命だっただろうと思うと悔やまれてしかたがないが、人の寿命は天命ゆえしょうがない。

 ここで、彼の最後の逸話を書くことにする。彼はその筋肉美を認められ、長崎の平和記念像のモデルになった。これは徳島新聞にも載っていて実家にも切り抜きがあるので小さいときからよく見せられたものだ。もちろん、体の部分のモデルだったのだけれど、顔もどことなく似ているとのことである。修学旅行で長崎に行った時に初めて平和記念像を生で目にしたわけだが、やはり感慨深いものがあった。ちょうど彼がモデルをしていた頃に、日本体育大学の教授の推薦があったらしいが、彼は母を一人残して東京にはいけないといって断った。本当に母想いの人だったのだなぁと思う。

 彼の死後36年経った、2003年の3月、5000名を越す彼の生徒・弟子の寄付により、穴吹高校に石碑が建った。加えて、彼の伝記も出版された。石碑には「『せんとうはん』こそは最期の、真(まこと)の徳島侍であり、偉大なる教育者であった。」と刻まれている。私はこの祖父を尊敬してやまない。超えられる存在ではないのかもしれないが、せめてその幻影を追いかけたいと思っている。長らく四国の実家へは帰省していないが、今も私は祖父が飛び込みの練習をしたという橋と、その下を流れる煌びやかな吉野川を思い浮かべることができる。そして、夕日に映えたその川の流れに祖父を見て、彼のような教育者になりたい、切にそう思うのだ。

編集後記

  • 2009年11月19日誤記訂正(脇町高校→穴吹高校、少佐→少尉)