原発被災者の声を聞いて思ったこと

今日は、業務をいったん中断し、夕方、法友会(弁護士会の中の派閥の名前)の「原発弁護団の活動と今後の課題について」という講演を聴講してきた。俺、紫水会なんだけど、まーいいやろと思って。そこで、原発に関する法的問題などを学んだ後、最後に被災者の人の話、というコーナーがあり、そこの内容にすごく心に残ったので、備忘がてら書くことにする。

なぜ残ったのかというと、多分、「被害者の権利主張」の妥当なラインというテーマについて最近考えているからだと思う。弁護士というのはある意味では簡単で、立場によって建前上の態度は割りと簡単に決められると思う。被害者側に付けば、被害者の正当な権利であるから可能な限りその全てを獲得できるよう尽力すべきだし、加害者側(医療問題であれば医者側)につけば、全員を満足させていたら大変なことになる(医療制度が破綻する、他の人に払えなくなる)から妥当なラインのみを認めるべきであると主張することになるだろう。ラフに言えば「空気読んで」ということ。

では、そういった立場を超えて、自分自身はどう考えるのか。つまり、どの程度が正当な権利主張で、どの程度が過剰請求なのか。個人の損害填補と社会システムの保全の考慮の際の重み付けのバランスはいかほどが、妥当か。そういったことを考えているが、いまいち分からないのは、結局のところ、賠償請求する人(=患者)の気持ちも、される人(=医者)の気持ちも、よく分かっていないからなのだと思う。一つには、想像力の貧困さがある。想像の射程距離の短さといってもいい。もう一つには、本人の生の声を聞いた数が少ないという経験の貧困さがある。そういう中にあったから、生の声を聞く、という機会は大変に貴重に感じた。

さて、やたら前置きが長くなったが、今日聞いた、被災者の人の話とは、大要以下のようなものだった。カギカッコをつけてはいるが、記憶を再現したものであって、正確な引用ではない。スライドの表示は一瞬だったので、だいぶ想像で補完しています。

「私は、普段お金にこだわらない母が、弁護士さんを雇ってまで東電に賠償請求することを不思議に思っていました。そこである日、母に聞いてみると、母はこう答えました。『お母さんも、何をやっても、もう元通りにならないことは分かっている。でも、これからも、ここで生きていかなければならない。そのためには、何か、納得できるものが必要なの。お金をもらったんだから、しょうがない、と。弁護士さんにお願いしたのは、お母さん個人では、東電に負けるてしまうから。プロの弁護士さんが交渉して、その結果、金額が決まるのだったら、それで納得できると思う。だから、弁護士さんにお願いしてまで、賠償請求をしてるんだよ。』と。」

金銭そのものというよりは、生きていくための納得のために賠償請求をやっているんだという点、金額の過多ではなくてプロの弁護士が代理したんだからという手続きの正当さ、やるだけやった感が重要なんだという点が、とても深く印象に残った。同時に、弁護士という仕事の責任の重さと、誇りも感じた。「プロ」なんだと。君がやってくれるのだから私は納得します、と言われることの重さね。全てにおいて、手を抜いてはいけないし、研鑽を怠ってはならない。これからも、頑張っていこうと思いました。