「招かれざる客」(映画)

 ジェンダーの授業で観た。黒人男性が白人女性との結婚について互いの両親に許可をもらう話。思いのほか、面白かった。古典的な有名な映画らしい。ちなみに、黒人男性は超エリートの医者、白人女性はリベラルな家庭で育ち黒白差別を全くしない、という設定になっている。人種以外の諸点について、何一つ障害がない状況でなお、結婚を認める認めないで対立し均衡する点に、当時における(そして現在も)人種の差異という壁の高さを見た。
 結婚をするに際し、そのことを理由に結婚を拒むことが、理念的に許されないものがある。外国人(在日含む)、原爆被害者、部落出身者等々である。本人は全く悪くないからだ。しかし、一方で、現実問題としてこのような事情を理由に結婚に消極的な反応を示す親がいることは否定できない。宗教を持つこと(特に新興宗教)、低学歴、低収入なども、表立って反対事由とすることは憚られるが、現実には消極的理由として働いていることが少なくないだろうから、同列に論じてよいだろう。
 理念的な状況と現実的な状況に乖離がある場合に、一方が前者を主張し、他方が後者を主張しても、話は平行線を辿ること必至である。そして、議論を続ければ前者の主張が勝つこともまた、通常だろう。なぜならば、それが正論だからである。しかし、目標は、論破ではなく、納得にある。そもそも、承諾などなくても結婚はできるのだ。納得を得るために、親と相対しているはずである。
 そこで、清らかな正論を振りかざすだけでなく、清濁併せ呑んだ説得が必要だろう。理念系をいくら叫んでみても、あまり意味がないように思う。差別はいけないこと、ということは対立当事者間の共通見解だと言っていい。現実に、差別があることを素直に認識し、その上で、それを乗り越える具体的方法論を議論することに、実益があろう。むろん、社会全体を、理念系に近づけるための努力は賞賛されて然るべきである。けれども、社会全体がすぐには変わらないにも係わらず、正論で突破しようとする姿勢では、納得は得られない。
 こういったことは、少なくない。話はそれるが、だからこそ、高らかに、理念を唱えられるときは、幸せだと思う。活動家、リーダーといった人は、事務所に戻れば冷静に現実を見ながら策を練っているだろうが、民衆の前に立ったとき、高らかに理念を謳う。社長もそうかもしれない。幸せな職業だと思う。