正義が文化に勝つとき

 司法試験の勉強じゃないですが。現代法の基本問題でジェンダーをとったんだが、面白い。授業中のグループディスカッションも手を抜こうと思えばどこまでも抜けるがなんだかんだでみんな真剣に議論する(事前配布の資料を読んでなすぎたのは反省ですがwww)のがよい。そういうところ、好きだー。
 で、授業の最後に観たビデオはかなり印象的だった。公民権運動の歴史である。南北戦争によって理念的には白人と同等の権利を得るべきとされながらも、依然として慣習上あるいは法律上続いてた黒人差別に対して、黒人たちが立ち上がり権利を現実に獲得していく過程である。白人は何でも持っているから神様がそうしたということは白人は自分よりもえらいというこなのだろうと思った、という当時のある黒人のコメントからもわかるように、人は状況を受け入れるために正当化する能力がある。利する側はもちろん、害される側も、状況が不可避とみるや、その正当化を試みるのは防衛本能といっていいだろう。そうやって、両者に共通見解すなわち常識が生まれ、争いは一見鎮静化し、状況が繰り返される結果、差別は固定され「文化」となる。そういった中で「文化」を疑い、あるべき姿を探求し、現状を糾弾することはいかに勇気のいることか。そして、このようにして固定された「文化」を是正することはいかに困難か、ということをビデオは示唆していた。たとえば、某学校が入学者を白人に限っていることは違憲であるとの最高裁判決を受けて、黒人の学生にはじめて入学が許可された日、州知事は戦闘部隊を派遣してまで彼らの登校を拒否したし、周りを取り囲んだ白人たちは暴徒化し、黒人記者は暴行を受けた。いかに権力者といえど、民衆が力をあわせれば勝つことができる。それが民主主義の帰結であろう。しかし、是正すべき対象が文化、すなわち民衆自体の意識にある場合、それは困難を極める。
 公民権運動は、しかし、成功した。そこから学ぶべきことは多いように思う。その成功に、最高裁判決が大きな力を果たしたことは疑いない。そこには、単純な憲法解釈ではなく、司法権が全力で社会のあるべき姿を模索した結果が凝縮されている。最高裁は争いの終局的な解決として判決を下すが、実は、真の戦いはそこから幕をあげたのだった。そこには、キング牧師をはじめとしたリーダーの活躍がある。法を武器に、あるいは盾に戦う専門家が弁護士であり、その後、あるいはそれを含めた全体をプロデュースしあるべき社会を実現するのがリーダー(活動家、日本では期待薄だが政治家がもっとも近い職業となろう)であろう。後者に、憧れる。そういった仕事に心血を注ぐ自分に期待する。素養を磨きたい。