親友とは何か

 どんなに安全運転に気をつけていても、長年車にのっていれば、コスりそうになることぐらい何度かあるわけだが、このロースクールという狭すぎる空間のなかでも、人格的衝突事故になりそうな場面がないわけではない。その回数は、極めて低いのだが、僕の場合衝撃的なことに、その相手方が、全く別件であるにもかかわらず、毎度同一であるということに特殊性がある。最初は偶然だと思い、次に呪いだと思い、現在はむしろ同一である方が自然であるとの達観に至っている。といっても、そんなたいした話ではなくて、相手方にも主張はあるのであって一方的にどちらかが悪いわけでもなく、誰もが年に一度や二度は経験するであろう困った状況と相違ない。
 もっとも、井上君のロースクール悲劇ストーリーはもはや笑い話なので、ブログでウツウツと書いたりはしない。が、悲劇ストーリーが笑い話に転化するにあたっては、多くの友人に相談を聞いてもらった経緯がある。ここで書き記したいことは、そういった相談やグチに対して、親身に考えてくれる人と、めんどくせーという態度をとる人とに二極化されるということだ。もちろん、あからさまに後者の態度をとるようなイジワルな人はさすがにいなくて(笑)、事後的に発覚するものである。
 そこに、友人と親友の分水嶺を見た、ということを言いたい。後者の人に対して、二度とグチることはないだろう。それは弱見をみせることはないということである。もちろん、それゆえに、二人が仲違いするわけではなくて、最高系としては「ライバル」の関係にまで発展するだろう。しかし、「ライバル」路線と「親友」路線は俺の中では全く別物だ。ライバルか否かは、その人の中に、自分より高い能力を有する部分があるか否かにより、親友か否かは弱みを見せられるか否かによる。だから、当然に「ライバル」兼「親友」もいるし、ただの「ライバル」、ただの「親友」もいる。
 「その人が自分のことを嫌悪していると聞いた場合にそれを信じられるか」という問が、友人と親友との判別方法としては機能するだろうと言ってきた。それを聞いて、「あいつにとって俺はそんなものか」とその人の評価が下がるのであれば、自分から見てその人はいまだ友人の域にいる。それを聞いて「あいつはそんなこと言うはずがない」「言ったとしても理由があるはずだ」と思えるのであれば、自分から見てその人は親友の域にいる。噂ごときとはいえ、人は自分を嫌悪する噂にとても弱い。それでも、揺るがず、信頼できる相手のことを、親友と呼びたい。そしてその信頼が醸成されることと、弱みを見せられることとは、少なくとも僕の中では近似的である。
 長々と書いたが、自分から見て、親友とは何かを模索すること自体は、さほどの実益はない。むしろ、相手からみて自分が親友たるために、どういう行動規範を定立すべきか、ということの論及に実益がある。しかし、他人から見た親友の要件を一義的に特定することは困難を極める。そこで、少なくとも、自分の規範から見れば、自分は親友たりうる、という努力だけは継続したいと思う。それゆえ、友人が困っているときの叫び(=愚痴=弱み)をめんどくせーとは言わず、聞いてあげられる人になりたいなと思う。