基地問題

 本日、憲法を市民に身近に知ってもらうことを目的としたタウンミーティングが名護であった。そこにパネリストとして指導担当弁護士さんが出席することになったため、僕も市民のひとりとして参加した。その後の打ち上げにて、パネリストとして参加された憲法学者さんとの議論があり、その中で気づいたことを備忘のために書きとどめておく。
 基地に反対するといっても少なくとも二つの立場がある。一つは、我が国の安全保障の観点から、基地の存在自体は必要(これが必要「悪」か否かはさておく)であると認めた上で、しかし基地は必ず危険を伴うものであるから、基地の大半が沖縄に集中する点をもって不当であるとする立場。つまり、軍をもたない建前の我が国は基地の負担を受忍する必要があることを認めた上で、その負担の分配に問題があるとする立場。もう一つは、憲法9条に特徴的に現れる平和主義の観点から、基地とは、戦争(人殺し)のために用いられるものだから、基地そのものが不要(悪)であるとする立場である。
 前者の立場からすると、基地の安全性がとりわけ重要となる。また、必要ないし有用だが危険を伴う装置をどの自治体が設置するか、という問題であるという点では、いわゆる迷惑施設の設置の問題と類似する。東日本大震災を引き金とする原発問題と沖縄の基地問題が似ているように感じるのは、このためではないか。しかし一方で、原発問題と基地問題が類似するのは、前者の立場・観点においてのみである点を忘れてはならない。後者の立場が問題とする平和主義の観点は、原発問題にはない基地問題特有のものだからである。したがって、原発問題の議論が参考になることは確かであるし、国民が高い関心を原発問題に持っている今、原発問題と基地問題の類似性を指摘することで、基地問題への関心を高めるという効果も期待できるが、あまり類似性を強調しすぎると基地問題に内在する平和主義との関係を看過し、矮小化された枠の中での議論に止まる危険性があることに注意する必要があろう。
 後者の立場からすると、基地の必要性という、シンプルにして難解な問題がそのまま議論の中核となる。まずは、自衛のために軍事力が必要なのか否かが問題となるところ、基地の不要を唱える人は(その多くが我が国が自前の軍を配備することに否定的であることからすれば)不要であると考えるのだろう。そうすると、まず前提として、我が国が近隣諸国から軍事的な攻撃を受ける蓋然性がどの程度あれば、「これはまずい」と評価するのか、が問題となる。隣国から攻撃を受ける蓋然性が一切ない状態で基地の必要性を認める人はいないだろうし、他方、隣国から攻撃を受けることが確実な状態で自前の軍も米軍基地も不要とする人もいないだろう。したがって、平和主義の理想を貫く価値の方を重視すべきか否かの分水嶺となる、隣国からの軍事攻撃の蓋然性があるはずであり、それはどの程度かが探求されるべきかと思われる。そして次に、近隣諸国(現実的には現在のところ、北朝鮮、中国、ロシア)が我が国に軍事的な攻撃を加える蓋然性がどの程度あるのか、仮にあるとしてこれに対して軍事力を何ら持たない状態での外交努力で解決できる蓋然性はどの程度あるのか、ということが議論の対象となると思われる。
 なお、沖縄では基地との利害関係を有する(基地内で自らあるいは親族が働いているとか、軍用地を保有しているとか)ために、基地に対する自分の立場を決めることが難しい、あるいは決めたとしてもそれを周りに明言できない人々(以下「利害関係人」という)が少なくない。基地反対派の多くは利害関係人のことを、本当は基地に反対しているがそれを口に出せない人々であるとして、基地反対派としてカウントしていないだろうか。他方、基地容認派は利害関係人を基地容認派であると容易に考えカウントしていないだろうか。利害関係人おおかれた立場は極めて複雑であり、簡単にいずれかに分類できるものではない。したがって、個別具体的に利害関係人が基地についてどう思っているのかを慎重に検討する必要があるし、また場合によっては、あえていずれの派にもカウントしないことが正しい場合もあるかもしれない。少なくとも、利害関係人が簡単には自らの立場を表明できないことを奇貨として、基地についてぞれぞれの立場が自らの立場に有利なように利害関係人をカウントすることは慎まなければならないだろう。