火垂るの墓

 昨日、火垂るの墓を観た。なんという重さ。死の日常性が一番印象に残った。お母さんのシーンとか、お医者さん「おお、こっちや、こっち」って言ってて、めっちゃ普通やったもんな。現代やったら、非日常として描かれるはずやけど、当時は死が日常だったんやな。
 このアニメが制作されたのは20年以上前らしいが、時が経てばこそ、観るべき価値がかえって高まる映画かもしれない。もちろん、芸術は時空を超えるから、というのもある。ピカソの絵が時間の経過や空間の変異によっても摩耗しないように、素晴らしい芸術は、時空を超えて、愛される。
 しかし、本作には、戦争という歴史体験についての、記憶の記録、それを伝えるという意味でのメッセージ性がある点もまた、先程の予想を基礎づける。戦争体験者の方から、直接話を伺う機会は減りつつあり、近くない将来、全くなくなる。語り継ぐという形式では、鮮度の低下は避けられないから、どこかで冷凍保存する必要がある。それが、デジタル化に代表される、各種のアーカイブである。
 原作は、小説ながら、このような戦争体験のアーカイブとしての役割を果たしていたと思われる。そうだとすれば、戦後、時が経ち、過去に戦争があったという事実そのものを意識する機会が減りつつある今にこそ、鮮度を保って冷凍保存された作品には、高い価値があるといえるのではないか。
 その価値の大きさは、鑑賞後の感覚−−すなわちいいようのない重さ−−からも、認めざるをえない。