金言とついったー

  • 「金融とPCと英語は必須だなぁ」。ついったーの誰かのつぶやき。まったくその通りだと思います。強いてもう一つ挙げるならば「哲学」かなと。
  • 「俺、この前優しさについて一晩考えたんだけどさ、優しさってゆとりだと思うんだよね。」いつかの終電での酔っ払いたちの会話。ゆとりがあればほんとはみんな優しいんだと。疲れてるとか追い詰められてるとかでゆとりがないから優しくできないんだと。なかなか深いことをいう。
  • ついったーがわかってきた。発言を眺めていて、フォローを継続したいなと思う人と、今はいいかなと思う人が結構明確に分かれる。情報の有益無益とは別にね。だから、ガバッとフォローしてしばらく様子みて気に入ったの以外ガバッとフォロー外せばいいと思う。フォローが多いと情報が流れすぎて見落とすのがイヤなんだがついったーってそんなもんか。まだ、このメディアに慣れてないのかな…。
  • 1個ぐらい英語フォローしてみるか。勉強中の英語でついったーにつぶやく台湾のかわいい女の子とかいれば、フォローしたい。
  • ついったーはしばらくは情報受信メディアとして活用すると思われ。情報発信メディアとしてはブログを使うだろう。最終的には、受信発信ではなく、「つぶやく」か「語る」かで棲み分けることになるだろうな。このブログの主たる存在価値である、まじめな記事の読者を、日々のしょーもない記事でがっかりさせることも減るに違いない。とりあえず思いつきはついったーでつぶやき、熟考したもの、清書したもののみをブログに書くことになろう。もっとも、毎日更新するという特性は失われる。この価値は、ついったーの登場により相対化されたことは疑いないが、果たしてなお継続するに足る価値を有するか、そこが問題である。また、しょぼいものでも更新を続けることでヒットが生まれるともいえるところ、複数のメディアを使えば結局、使用媒体はより簡易なメディア(つまりついったー)に収斂するとも思われる。加えて、(発信者の)匿名性、(受信者の)閉鎖性の点からも、ブログは特有の価値をもつ。一般に、匿名性についてはmixi<ついったー、閉鎖性についてはmixi>ついったーであるところ、ブログは一般化した議論にてきさない。このブログについていえば、匿名性はついったーとmixiの間、閉鎖性は客観的にはついったー以上だが、主観的にはmixi以下である。前者は検索エンジンの対象となることと、少なくない知らない人がブックマークしてくれていることから導かれる。一方、後者は、リアクトの多様性に依存していると思われる。すなわち、ついったーであれば知らない人からのリアクトがありうる。mixiであれば、知っている人ではあるがかなり広範囲からのリアクトが期待できる。一方、このブログにリアクトする人(心優しい暇人)は、結局わずか数名である。だから、書く側も閉鎖的な空間に語りかけている感じを拭えない。というわけで、やはりメディアの質を異にする以上、それらはトレードオフ関係にあり、実際に利用していく中で適応修正された利用形態をもって最適とするしかないのかもしれない。ここまで書いて気づいたが、この文章は、行きの千代田線で書いた「つぶやき」である。熟考もしてないし清書はおろか読み直しさえしていない。が、ついったーの制限文字数をはるかに上回る。ついったー使えんかもしれん。