ペルソナ論

 最近、自分の素と仮面(演じるキャラ、ペルソナ)について考えていました。素とあまりに乖離したペルソナは精神的負担が重いし、演じきれない(優しいぶってみても偽善くさい)ので、結局、素を中心に演技力を半径とする円内に配置された各種ペルソナをつけることになるわけです。
 ペルソナには少なくとも2つの効能があると思います。素自体の進化に寄与する効能と、何らか目的を達するの手段としての効能です。
 前者はつまり、様々なペルソナをつけることで、素自体の位置が逆に明らかになる、つまり位置情報更新機能といっともいい。このペルソナはしっくりくるとか、このペルソナはあわないとか、そういった反発係数から震源地の距離が逆算され、現在の素の位置の特定に寄与するわけです。意思に基づくペルソナ選択は、意思の淵源たる素の反映である面は否定できないはずだ。つまり、反発係数を認識しながらも、優しいペルソナをつけ続ける人は、現状の素は優しいキャラではないかもしれないが、付け続けるという意思はすなわち優しくなりたい、優しくあるべきだという、素自身が内包する成長の萌芽の表れであると思う。その意味で、ペルソナは素の成長にも因果を持つといえるのではないか。
 後者は、場面に応じてキャラを使いわけた方がいい場面があるわけで、それぞれの場面で目的達成のために特定のペルソナをつけるのが合理的だとの判断に至ったとき、そのペルソナを演じきるための技量が身につくという効能。積極的八方美人完遂能力養成機能といっていい。
 事に臨んでどのペルソナをつけるかは、各自の経験に照らし、合理的判断によって決せられる。事の達成に最適なペルソナをもっていればそれを着用すればよし、素を貫く派ならばそれもよし、いずれにせよ事の達成確率から合理的な解は、少なくとも理性的には導かれうると思う。
 一方平時においていかなるペルソナをつけるかは、成長の期待値と、素との乖離による精神的負担との衡量ではないかと思う。成長を重視する自分としては、先の円のはじ(つまり円周)にあるペルソナを選択しがちである…が、あわないことも多い。