ディスカッションとディベート 

 昼飯を買いに行った帰りに、しげに会った。南出が、グループディスカッションの秘儀を伝授するとのことなので、一緒に教えてもらうことに。昼飯をかねて、メトロで実演。南出がリラックマモードからオシゴトモードに切り替わり、トーク速度が2倍(当社比)に。概念の名前こそ違えどいろんな分野でいわれることなんだねー、ディスカッションにおいて大事なことって。
 俺は全体を見る方が得意だから、ディベートよりはディスカッションの方が得意だが、弁護士的にはディベートに強くならないとな。「確かに、相手方の方が説得的だし、正しいと思うので敗訴でいいと思います」とか依頼人には言えんしなwww。今回は二人なので、半ば必然的に、ディベート
 ただ、ディベートもディスカッションは目的は同じだと思うけどね。要するに妥当な結論を導きたいわけで。ディベートは立場を固定し、第三者が裁定するという構図をとり、ディスカッションは議論の中で結論が創発されるのを待つという構図をとるのが違うだけ。結論の規範としての拘束力の根拠も、ディベートの場合は討論者が議論を尽くしたことと、第三者が信頼できることにある一方で、ディスカッションの場合は全員で議論を尽くしたことになるのだろうから、実質的にたいした差異はなかろう。
 また、ディスカッションだって、立場をある程度固定しつつ、一定時間はみんな頑張るわけで、その間についていばディベートが行われているとも見れる。立場を変え、人を変えてディベートを繰り返すのがディスカッションだとするならば、両者は概念として連続的であると言える希ガス
 話はずれるが、これと関連してとても重要だと思われることは、世の中は条理と合理のバランスで成り立っているということ。ディベートもディスカッションも理念系は論理的正確さだろうから、ともに合理の世界に属する。ただ、形態が違うだけで。そして、コンサル等で一番求められるのも合理の世界での優勝だろう。ただ、合理だけでは世の中は回らず、条理こそが支配している領域もあることを忘れてはならない。これは、弁護士業においては特に深刻な自戒だ。少なくとも幸せ、ときに命に直結する場面において、合理的行動が、被害者を救う最高の手段とは限らない。むしり、概念を再構築し、被害者を救う最高の手段を合理的行動と名づけてもよいかもしれない。もっとも、それでは、従来の概念の合理と条理のバランスをとった状態を新たに合理と呼ぶだけであり、ややこしいだけだから採用しない。
 しかし以上のことは、もちろん、ディベートやディスカッションに条理を持ち込むことを是とするものでもない(ちょっとくらい持ち込んでもいい気もするが)。ディベートでの敗北を全体への貢献と見てこその大人だろう。ただ、厳格な論理性の下に出された解に、社会的条理を加えてから決定に移すということを忘れてはならない、という自戒を忘れないためにこれを書いた。