自己分析とは
ネット→日記を続けてしまうな。やっぱ明日から自習室いこっと。今日は「振り返れば奴がいる」を見た。三谷こうきなんやね。ほんと名作だわ。織田ゆうじがまじ熱演。見ながら、将来のことを考えた。
まず、自己分析とは、過去の夢あるいは結果を論理的につなげる作業だと思う。Aという夢を持った。それがBという夢になり、Cという夢になった。単に「気が変わった」だけなのかもしれないけれど、それらを論理的につなぐものがあると仮定し、それを探すアプローチなのだと思う。つまるところ、帰納的。結果についても同じだ。Aという結果が出せました。Bという結果も出せました。そしてCという結果も出せそうです。だから、僕はこういう力があると思います、など。それぞれ偶然かもしれないけれど、何か共通する力があると仮定し、それを探す旅。
そうだとすれば、誰かが言っていた「夢に墓場なんてないぜ」という言葉が納得できる。過去に抱いた夢は、夢集合の一要素として、存在し続け、自分なるものを分析するときに役に立つのだ。また、夢を論理的につなげる作業とは、一言でいえば、夢の抽象化であろうと思う。結果的に達成できる夢は少ないが、過去に強く願った夢を廃棄しようにも墓場はないから、抽象化いて、今につなげることになろう。
僕の場合でいえば、昔、医者になりたかった。しかし、その道は積極的であれ消極的であれ歩まず、今、司法の道を歩んでいる。しかし、医者になるという夢は、弱者救済のレベルまで抽象化することで、今とつなげている。僕は人を助けたいのだと。そう分析し、過去の夢と今の夢をつなげる。教師になりたかった夢は、教育への関心というレベルまで抽象化し、今に生きている。
そうやって、自分とは何かを考え続ける姿勢はあながち間違ってはいないとは思うが、時々、本当にそうかと懐疑的になることがある。論理的に全てを説明すべく、無理な抽象化をしていないか。つまり、あの夢は間違いだったといったほうがよいのではないかと思うことがある。墓場を作るべきではないかということで、端的にいえば、諦めてもよいのではないか。
夢を論理的につなげていくということは、サクセスロードを自演することにつながる。挫折はないのだ。過去全ての夢が今の夢を導き、かつ、将来へとつながっていく。そうやって夢を紡いで、今を生き、その帰結が「結果」として過去に保存される。全ての事実をポジティブに捉えること、どんな逆境もチャンスに変えること。そういうことが得意だし、そういう意識を常にもっていきたいとは思っているが、はたして、そのアプローチが常に正しいのか、という点は永遠に近い謎だ。
また、「システムを信じるか、システムを更新するか」と問題意識が、自己分析の場面でも顔を出す。つまり、既存の理論から導かれる結果とは異なる実験結果が出た場合に、既存の理論を疑うのか、その実験結果を疑うのか。これやりたいかも!と夢の萌芽を発見したが、それが過去の夢から異なっている場合、無意識に、その芽を摘んではいないか。むしろ、囲いを立て風から守り、水をやって大事に育て、その夢を夢集合に加えた上で、夢結合を再構成すべきだろう。少なくとも、夢は多いほうがいいとの前提に立つならば。
まとまらないが、そういったことを漠然と考えるうちに、結局、アプローチが複数あるとして、何を規範にそれを選別するのか、という問題が横たわっていることに気づく。それについて、暫定的ではあるが、自分はあまたあるものさしの中で特に二つのものさしを重視してそれらに対する規範としていると結論付けるに至った。
それは、「成長」。公益としての正義は当然にあるが、それを除けば、この「成長」というものさしで最終的には物事を判断しているように思う。つまり、最後はどちらが自分の成長に資するかという点。成長こそが生きがいだし、そして、何か一つ特技を言えといわれたら、「成長」になると思う。メタ俺と呼んでいる指標は、要は成長の観点であろう。
外出するのでとりあえずここまで。