友達とは
要約:
①知らない所にぶっこむのって怖いけど、きっと成長するよね。
②新しい出会いを友情、愛情へとつなげていくには、自分がある程度人間的にしっかりしてないとダメだと思うので頑張ろう。
③互いに相手をすげーなーって思える友達関係って素晴らしいね。
以下、妄想みたいなもんです。基本的にこんなことばかり考えて生きています。
空間的位置座標ではなくネットワーク上の座標をXY平面で考え、様々な因子を総合的に評価した人間力をZ軸に考える。すなわち、例えば留学で地理的には遠く離れてしまった友人でも、インターネットなどを通じて未だ身近な存在であるならば、ネットワーク上の距離は近いと考える。自分にとって日常とは限られたネットワークの中で日々、生活し、そこから何かを得、考え、経験をつむことで人間力を高めていく行為の繰り返しである。つまり、上から見ると、一定の円の周上を動きつつ、横から見ると少しずつながら高度を上げていく行為である。すなわち、螺旋階段を上っている。日々の充実、一日あたりに創出するバリューというものは、この螺旋階段の勾配である。階段一段の高さである。
当該座標において旅をする、とは、その円を飛び出すことを意味する。知らない世界、知らない人との触れ合いの中で己の成長を狙う。軸を異にした螺旋を上る。それは新しさをもって自分に接するので、勾配もまた、急かろう。すなわち、一歩一歩は大変苦しいものになるかもしれない。しかし、一周を終えて下を見てみた時、それがはるか眼下雲の下であることもまた、事実であろうと思う。
世界中の人を当該座標にプロットしてみたとする。各々の点は自律的に、かつ自立的にうごめき、それらの描く軌跡は時に交わるであろう。しかし交わるためには、XY座標が一致する、すなわちネットワーク上で同一点を共有する、要するに出会うだけでは不足である。Z座標の一致がなければ、それは単なるねじれの関係であったに過ぎない。友人たるか否か、恋人たるか否か、それらはかかる交わりをから発生し、その友情、愛情なるものは、それを端にして、紡がれていく糸なのではないかと思われる。Z座標が完全に一致する必要はない。なぜならば、各々の点は自立的だからである。互いが近傍に点が所在することを認めたならば、近づき合えばよい。だが、あまりに高度に乖離していると、両方あるいは一方が相手を認知できない。結果として、交点となること、あるいはならめることが出来ない。
ところで、近傍に所在する二点が近づきあうためには、上方にいるものは高度を下げざる終えないのだろうか。あるいは、上方にいるものが上昇速度を速度をゆるめることで、下方にいるものの追いつきを測らざるおえないのであろうか。それは、そうでありかつ、そうでもない、と思われる。およそ人として生を授かり、よりよく生きようとするものは、高度を下げるような行動を主体的にはとるべきではなかろう。そういう意味で、上方のものからするに下方のものに「近づく」という行為は合理的ではなく、そのような行動はとならないだろう。他方、下方のものは、上方近傍の彼を目的とし、高度を上げるので「近づく」という行為は合理的である。おそらくは勾配も高かろう。
「近づき合う」という行為を、下方のものは選択するが、上方のものは選択しないということは、この時点で自己矛盾しているという指摘はもっともである。そもそも、「近づき合う」という行為は当該当事者である両者がともに行動して初めて為しうる行為だからである。しかしこの矛盾については、座標の相対性という点で解決が出来ようと思われる。すなはち、全ての軸は各エージェントに固有のものであり、全ては相対的である。しかし、軸を創造するにあたり、一般的規格としての常識というものがまず、ある。従って、そこまで座標がずれるということはないと思われる。だが、近傍にある二点においては座標の取り方によって高度の入れ替わりが起こってもおかしくはない。つまり、当該当事者である両者がともに、自分の軸で考えてみるに、他社を高度が高いと感じる状況が存在する。自己の謙遜があるにせよ、かかる状態が生じたとき、両者は近づきあい、近づきあいながらも加速度的に互いの高度を高めていけるのではなかろうかと思われる。友達の定義は?という問いに対し、そういった点から私は「尊敬できる人」と答えている。