ハナクソほじりながら、宇宙を考える

匂いのバイアス

バラに鼻を近づければ近づけるほど、バラの香りは濃くなっていきます。完全に鼻にピッタリをバラがくっついたとき、バラの香りはMAXになります。でも、ずーっと鼻にバラをくっつけていたら、匂わなくなります。絶対的な匂いそのものはあるのだけども、鼻がその匂いに麻痺してしまうからです。これは一種の適応だと考えられます。そうでないと、一日中何かの匂いを感じ続けることになり、脳を無駄に使ってしまうからでしょう。匂わなくなるのは、要するにその匂いを自分の周りの「標準」と認定した、ということなのかもしれません。もしくは嗅覚が疲弊しただけなのかもしれないが、現象としては同じなのでまーいい。
ところで、じゃっかん汚い話になりますが、ハナクソ(以下、Hと略す)って臭いですよね。とうか、ハナクソ臭いなーというところから今日の宇宙へとつながる長い文章が着想されたんですから、間違いなく臭いです。信じて下さい。で、そのクサイ物質Hは従来鼻の中にあったものですよね。英語でいうと、in Noseだったわけです。ということは、そのときHはMAX臭かったはずなんです。でも、Hがin Noseの時、僕たちは臭いなんて感じないわけです。何故か・・・。それは僕らが、H is in Noseな状態を「標準」としているからなのです。
つまり、簡単のため匂いが和差に閉じている(足したり引いたりできる)と仮定すると、僕らの嗅覚はHを基準(=0)としているため、実際よりもHだけ低く感じていると思うんです。ということは、絶対的匂いというものが存在するのならば、それは僕たちの感覚にHの匂いを加算しなければならないことになります。バラの香りは本当はバラ+Hなのです。全ての香りは実は+Hすべきなのかもしれません・・・などと夢も希望もないことを考えました。しかしそれだけなら、日記になんか書かないわけで、この話には続きがあります。宇宙まで飛んでいきます、思考は。

ラクラルで宇宙へ

さて、嗅覚同様、視覚も麻痺するのでしょうか?。ずーっと緑の光景を見ていたら、緑に「標準」化されるのでしょうか?やったことないから分かりません。明暗に関しては瞳孔の開き具合で最適な絞りに「標準」化されるけれども、色に関してはどうなんでしょう?ただ、直感的には少しぐらいは「標準」化される気がします。よーく見てみたら緑の中にサヤエンドウが!みたいなノリ(緑を標準にすることでサヤエンドウが他の緑から区別される)は、あるような気がするからです。
こういった適応とかの能力は人間をロボット化しようとすることを想像するときに、悩ましいです。モノを感知する能力は分かる。光の周波数を察知すればよいんだし、必要だし。脳にあんま負担かけたくないから、必要そうな周波数のとこだけでいいよねーってのも分かる(これが可視光線)。そして、モノを記憶するべくメモリーが必要(記憶)なのも分かるし、消去または隠蔽する能力(失念)も備わってないとなってのも分かるし、わりと普通に作れる気がする。でも、適応とかそういった機能は難しいと思う。というかいかんせん別になくてもよい気もする。
でもそれだったら、嗅覚の適応を捨てて紫外線を見えるようにしたほうがいいんじゃないかとかなんでも言えるわけです。ここで疑問なのが、人って使える能力をいい感じに各機能に分配できてるんだろうか?ってことです。なんとなくいい感じなきもします。いや、よすぎなくらいです。人間すごいです。視野を広げれば、鳥が空とんで、魚が泳いで、動物が平野を歩く・・・この配分というかすみわけもすごいと思います。
ここになんとなくフラクタルを感じます。地球の中の生物の配分と、人間の能力の配分がフラクタルな予感。フラクタルというからには、相似形が無限に続くわけで、ミクロに進めば、臓器内の各細胞のエネルギー配分なども相似かもしれないし、マクロに進めば、銀河系ないの星のエネルギー配分なども相似かもしれない。宇宙は広大なフラクタルだったりするとアツイ。もしそうなら、人間を研究することから逆算的に星が分かるかもしれない。宇宙の外まで推論できるかもしれない。大統一定理とは、なんかそんな感じの「いやー実は、宇宙も細胞もいっしょでしてん」的なノリなきがする。ミクロ物理とマクロ物理が1つの橋で結ばれるならば、それはやっぱフラクタルなんじゃねー?

宇宙の真理は脳にあったりして

そういったことを考えていくと、ダーウィンの進化論があやしい。いや、ウソではないのだろうけども、それだけでこんなにうまいことなるもんかねーと思ったりする。なんかしらんけどビッグバンがあって、それ以後なんかしらんけどスッゲー定理に従って星たちができました。今度は星ん中でなんかしらんけど生物が誕生して、それ以後なんかしらんけどさっきと同じスッゲー定理によってうじゃうじゃ進化しましたみたいな感じの方が感動するな、俺は。そしてビックバン以降星が今でもグルグルと動いているの同様、生物も最初のんが登場したあとはウジャウジャと進化を続けている。その生物の進化と星の盛衰は同時に起こっていて、それはまるで複雑にかみ合わさった歯車のようだ、とかだったら失神しそう。ステキすぎる。
もしそうだったら、宇宙の真理(スッゲー定理)を人間が先天的に知っていてもおかしくはない、と思う。だって、ビッグバン以来スッゲー定理に従ってここまできたんだから。でもあまりに時間がたちすぎて、その事実は人間ごときには不要なので隠蔽されている。どこにか?、それは、各人の脳だと思う。というか、脳くらいしか置き場所がない、一応メモリーだし。なんでそう思うかって、それは人間が脳を1〜2割しか使ってないからですよ。おかしいやん。
もっと使えよ、脳って思うやん。お前どんなけ将来の為に残しとんねんて話やん。この広大な世界を生き抜くのに、1〜2割で足りるのなら、残りの8〜9割には、広大すぎて想像もできないくらいのヒミツが隠されていると疑っても不思議はないでしょう。想像できないくらいに広大なヒミツといえば、もうあんた、宇宙しかないじゃないのよ、と思うわけです。
また、昔「消したはずのMDが聞ける」という体験をしました。なんか、7曲目あたり間違って消してしまったんですけど、6曲目の途中でいったん蓋を開けて閉めたら7曲目まで聞けたんですよね。そのとき思ったのは、MDにおいて「消す」ってのは「アクセスできなくする」ってことだったんだなってことです。7曲目の情報は上書きされるまで残っているんだけど、アクセスを禁止することによって消したかのようにふるまう。これは非常に効率がよいです。いちいち情報を消さなくてよいからね。人間の脳もそんな感じなんだと思う。記憶があるかないかの昔から得た情報は全て脳に蓄積されていて、不要なものはアクセスを禁止することで「忘れ」たことにしているのかもしれない。だとしたら、使われていないと目される脳には膨大な量の記憶が眠っているのかな。そして、ダイバーが海中にもぐるようにその記憶を下へたどっていけば、人類ひいては宇宙の発祥にまでさかのぼれるのではないか、と。

宗教と宇宙の真理

で、まぁ、脳の解析はまだまだ進んでいないので、使われてない脳が何を隠しもってるかはまだ分かりません。というか、何もなく、ただ進化が間に合ってないだけとかかもしれません。でも、それではロマンがないので多分ウソです。基本的に、物理では正しい答えは美しいと思います。そして、根源的な事実は人間を感動させると思います。つまり、ロマンがある(と嬉しい)。ロマンがあれば真実だとはいえないにしても、真実にはロマンがある、と言ってたい。
そんなわけで分からんのですけど、人間って有史以来めっさ人数おるから、たまに何かのミスでその使われていない脳にアクセスできちゃう人が出たりするとおもうんですよね。そのミスを「奇跡」といって、その奇跡が起きちゃった人が「キリスト」とか「ムハンマド」だとおもうんですよね。宇宙の真理に気づいてしまった。でも、それは人間に理解できるレベルのものではなかったから、人間が理解できるレベルに下げて理解され、伝えられた。つまり、人間語に翻訳された、とかだったら楽しくね?。つまり、宗教の発端は皆同じく宇宙の真理的なものへの接触から来ていて、でもそれの翻訳の仕方がみなまちまちだから違う宗教になってるんだよ的な。
同じ内容でも英語と日本語じゃ見た目まるっきし違うから別種のものだと思ってしまうけども、日本語も英語もできるバイリンガルから見れば、同じなんですよね。だから、相手のことを理解すれば実は同じ!?みたいな部分は絶対あるとおもうんですよ。でも、相手の言語を知らないから、「水と油だぜ」とか言って、宗教戦争はなくならない。翻訳のレベルを超えれば同じなのかもしれないのに。

真理を知るという視点での、宗教と科学

そして科学もまた、宗教とベクトルとしては同じな気がします。どうも、逆ベクトルと思われている感じがしますけども、宇宙の真理というキーワードでつながっている気がします。宗教は天才の奇跡によって、論理的理解はままならぬものの、庶民でさえも真理っぽいなと思える状況を作り出したと思います。そして科学は、論理的理解で宇宙の真理を探ろうとしてるんだと思います。ただ、思いのほか、その真理と人間の頭の差が大きく、科学で真理に到達するのにはまだまだ時間がかかりそうです。
そういう意味でもアインシュタインは「奇跡」を起こしたと思います。科学という分野で「真理」に近づくことに成功した。それはキリストやムハンマドの起こした奇跡と「真理に気づく」という意味で同ベクトルだと思います。そして、僕たちは、その真理に気づきたがってるんだと思う。だって、脳はそれを知っているんだから(たぶん)。だから、宗教にハマル。もしくは、科学に傾注する。
特定の宗教を持たない人は科学を妄信する傾向が強いと思います。それは、「宗教or科学」の対立が明確だと思われているからです。宗教を信じないなら、逆に科学的に正しいとされることは信じるしかないでしょう、という流れです。結局、みんな、真理を知りたがっていると思う。宗教という特急列車で、目隠しはされるものの一気に真理っぽい境地へ行くか、科学という鈍行列車で、周りの景色はしっかり見えるものの気の遠くなるような長い旅路を歩むか。要は、そういうことなんじゃないのかなと思いました。魚が生まれた川に戻ってくるように、僕たちは記憶の海を深く深くたぐっていってるんじゃないだろうか。その意味で新しい理論、技術、解釈は発見されるのではなく「思い出」されるのかもしれない。もともと全て知っていた、と。そして、そういった考え方が仏教という宗教の中でもなされていることに、やはり同ベクトル性を感じます。