過去記事一言集

はじめに

 過去記事としてサイドバーにリンクするほどでもないが備忘しておきたい一言集。他人の言葉の方は、素敵言葉リストとして別途まとめているので、こちらは自分の言葉を保存する場所とする(なお、適宜修正を加える)。こういう事を考えてきたんだなという軌跡の記録帳。

2005/9/3

 ある入力に対して既存のシステムの返す出力(予想)と、実際の出力(結果)が違う場合に、システムを更新するか観測結果を例外とみるか」という二者択一はいろんなところで見られると思う。科学の発展はマクロ的には前者の繰り返しだが、ミクロ的には後者が幾千と繰り返されているように思う。つまり、ニュートン力学で対応できない事象が出てきたから量子力学相対性理論が出てきた(んやんな?)ように、例外を糧に新しい理論は作られて来たように思う。しかし一方で、俺たちが高校まででやってきたことはひたすら既存の定理へのあてはめだったように思う。簡略化されニュートン力学が絶対成り立つ系の中での計算だから、おかしな結果が出た場合は間違いなく自分のミスだと思う。後者は誰もがやることで、受動的で機械的な行為だが、前者は情熱溢れる挑戦者(研究者)がやることで、能動的で独創的な行為だと思う。

2005/09/13

 科学もまた、宗教とベクトルとしては同じな気がします。どうも、逆ベクトルと思われている感じがしますけども、宇宙の真理というキーワードでつながっている気がします。宗教は天才の奇跡によって、論理的理解はままならぬものの、庶民でさえも真理っぽいなと思える状況を作り出したと思います。そして科学は、論理的理解で宇宙の真理を探ろうとしてるんだと思います。ただ、思いのほか、その真理と人間の頭の差が大きく、科学で真理に到達するのにはまだまだ時間がかかりそうです。

2006/03/10

 当事者である両者がともに、自分の軸で考えてみるに、他社を高度が高いと感じる状況が存在する。自己の謙遜があるにせよ、かかる状態が生じたとき、両者は近づきあい、近づきあいながらも加速度的に互いの高度を高めていけるのではなかろうかと思われる。友達の定義は?という問いに対し、そういった点から私は「尊敬できる人」と答えている。

2006/5/21

 あくまでも対等に、あくまでも全員が個々人の正義で動くことで全体の秩序が保たれることはない、というのが先人から受け継いだ知見である。そこで、全体を統括するものが選出されるという形態が一般んにとられる。ところで、」全体を統括するよう委託された代表は、委託されているというその一点においてのみ、優位である。逆に言うと、それ以外、何もない。なんで従わなければならないのかという根本すぎる疑問は、その一点によってのみなんとか答えれるようなあやういものな気がする。だから、当たり前にそれをみな、受け入れているのではないか。あやういことを承知しているがゆえに、逆にそこは甘受する。そんなこんなで、社長室がちょっと立派になっているのではないか。

2006/06/16

 実は、誕生日って別に本人は何もほめられるべき点はないように思う。じゃー誰を讃えるのかっていうと、おかんではなかろうか。22年前の今日、いてーよとか思いながらも産んでくれたわけで、そこから俺の人生絵巻が始まったわけで、やはり今日はおかんに感謝すべき日な気がする。おかん偉業達成記念日みたいな。

2007/01/07

 神はいるか?と問われるならば、いる、と答えよう。どこに?と問われれば、心の中に、と答えよう。神はいないという人がいても不思議ではない。あなたの世界に神はいない、というだけのことである。また、俺の思う神も、俺が構成する世界観の中で観念されている抽象的な客体にすぎない。だから、他人に対しては非力で、無力で、というかは何ら価値をもたない。が、俺にとっては、絶対的な力を持った存在として常に認識される。例えば俺の場合、モラルに反することはしないという行動基準は、神様は見ているぞという考えに実は近いのかもしれないと思っている。
 各人の観念する神に共通性を見いだそうとするとき、それは宗教として動き始め、他者を巻き込み、膨張していく。周りと見解が一致することは、自説への確信度をどこまでも高め、結果的に、あるコミュニティーが共通に観念する神が、全世界共通に崇拝されるべき絶対的な存在であると考え始める。そのようなコミュニティが複数存在する時、「真理は1つ」という事実と、「全世界共通に崇拝されるべき神が存在することは確かである」という説を信じるゆえに、戦いが起こる。

2007/01/09

 ジレンマ状況の問題解決全般に言えることとして、「線引き問題に帰着させてはいけない」と思っている。ジレンマとはAを立てればBが立たず、Bを立てればAが立たずという状況である。このとき、「線分ABを考えてその間のどこかに解を置く(多くは中点)」といった痛み分け解法を最初に考え、それで満足してしまうことが多い気がする。そんな解の出し方は誰にでも出来るのであって、求められるのはそういった線引き問題から脱却し、AもBも満足させる解=最適解を吟味することであると考えている。だから、議論においても議論終盤でいたしかなく、ならばまだしも、序盤から線引き問題に帰着しそうな時は、危機感を持つようにしている。最適解がすぐにわからないからこそジレンマなのだが、最適解の存在を信じているからこそ、粘って考えることができる。そして、実際、粘れば最適解というものは見えてくることが多い。

2007/6/14

 日本人男性の平均寿命は79歳。俺今23歳。後56年。60×60×24×365×56=1766016000より、俺の人生の残り秒数はざっと17.5億秒強。これを、17.5億個のパチンコ玉(直径11mm)がプール(50m×25m)に敷き詰められていて、1秒に1つずつ穴から零れていくと考えてみる。パチンコ玉を敷き詰めると、各層の隙間の上の層の玉がかぶさっていく、いわゆる六方最密充填構造(充填率=π/(3√2))をとることを考慮すると、17.5億個の玉をプールに敷き詰めるたときの高さをhとして、以下の式が成り立つ。これを解くと、h=133cm。もはや乳首ぐらいまで来ている。人生は短い。充実せねば。

5000×2500×h×{π/(3√2)}=1766016000×{(4/3)×π×(0.55^3)}

2007/6/22

 慣習的に、例えば電車の中とか、日々ちょっとずつは何かを考えている。その大半は失念してしまうが、一部は頭の中に論議の萌芽として沈澱してゆく。それが積もり積もって一定量に達すると、頭がその処理、すなわち心コンテンツ的な思考を無意識的に初め、結果、勉強がはかどらないのではないか、という仮説をたてた。実際、勉強がはかどらない時期と、アイデアが沸いてくる時期がセットで訪れることを経験的に知っている。ならば、ある種ガス抜き的に、つもったものを考える時間をとれば、すっきりし、お勉強もはかどるのではないか。すなわち、勉強がはかどならいことに悲観する必要はなく、別方面で頭を使うグッドタイミングであることを知らせる、福音であるという説を、私はとる。これを、怠慢福音説と名付けよう。

2007/07/01

 指揮者がすーぱーかっこよかった。あと、「全身で感動する」というのは本当だ。客観的に感動する自分を観察したところ、演奏が超かっこよくババーンと終わった瞬間、まず太ももまたは腕あたりがビビビと震え、それが体の裏に回って、脊髄を通って上り、目の奥から目の裏に向かってビビビが伝わってきて、涙ぐむ、という感じだった。神経回路がどういう感じになってるのか知らないが、俺の場合、何度かあった感動ポイントが全てこの形だったので、こういう風に感動を感受しているのだなぁと思う。どうも、脳で感動するよちも前に、太ももや腕で感動してる(筋肉で感動する、とまで言うと狙いすぎかなw)気がする。感動とかって脳しか無理じゃーんと常識的には思えるけれど、そうでもないんじゃないかな、と考える。諸機関は、全体の統治のため、脳に統制権を集めただけであって、感動のような、本能的・原始的な感情を感じることは、できるのではないか。

2007/12/14

 充実するためには、行為時の努力が重要なのは当然だが、基本的に全力で事にあたることを前提とするならば、重要なのはむしろそのスケジュールの管理であろう。つまり、可処分時間のうち暇としない時間を決め、結果の価値が最大になるように、そこでなすべき行為を選別し、順番を決める。そして決めた以上、全力で事にあたり、結果の価値の総和を見て、満足したり反省したりして、次のスケジュールをたてる。要するにそういうことを目指して毎年生きている。

2008/03/02

 夢を論理的につなげていくということは、サクセスロードを自演することにつながる。挫折はないのだ。過去全ての夢が今の夢を導き、かつ、将来へとつながっていく。そうやって夢を紡いで、今を生き、その帰結が「結果」として過去に保存される。全ての事実をポジティブに捉えること、どんな逆境もチャンスに変えること。そういうことが得意だし、そういう意識を常にもっていきたいとは思っているが、はたして、そのアプローチが常に正しいのか、という点は永遠に近い謎だ。

2008/05/28

 世の中は条理と合理のバランスで成り立っているということ。ディベートもディスカッションも理念系は論理的正確さだろうから、ともに合理の世界に属する。ただ、形態が違うだけで。そして、コンサル等で一番求められるのも合理の世界での優勝だろう。ただ、合理だけでは世の中は回らず、条理こそが支配している領域もあることを忘れてはならない。これは、弁護士業においては特に深刻な自戒だ。少なくとも幸せ、ときに命に直結する場面において、合理的行動が、被害者を救う最高の手段とは限らない

2008/8/28

 人格を球体で捉える。他者との交流は、他者の人格(別の球体)との接触を意味し、共通部分(接触部分)において互いに影響を与え合う。影響は、差分に由来する。すなわち、元来同一性を保っていた自己人格分子が、その間に他者人格分子が挟まれることで、その差分から同一性が害され、そこに違和感を感じる。そこから再び同一性を取り戻そうとするときに、従来の人格分子の性質状態に戻るのか、その違和感を反映した新たな人格分子の性質状態に収束するのか、いずれにせよ、他者人格分子との差分に基づく違和感を通じて新たな人格分子が形成される点、成長と呼んでよいだろう。

2009/01/05

 まとめると、その他イロイロもこなしながら、なお(司法試験に向けた)学習に全力を注ぐためには、その他イロイロに対する責任感を持ち、なそうとすることすべてに対し、無限の情熱を誓い、つまり覚悟を決め、本丸たる学習そのものについては、楽しむことが最強の成功要素であるということだ。逆に言えば、楽しくない学習は少なくとも楽しくなるまでは自律的に繰り返さなければならない。そして覚悟を決められない些事は切らなければならない。

2009/07/02

 社会システムについても、生態システムにおいても、システムのレベルで重要なことはバランスであり、要素のレベルで重要なことは多様性であると思う。画一的な要素群で構成されたシステムは、一見磐石そうに見えて、環境の変化に弱い。また、画一的な要素群で構成されたシステムは、方向をそろえやすく、全体として大きな力を発揮することが可能である半面、その方向の正当性について、再考する機会を実質的に有しない点でも、危うい。

2009/08/19

 事に臨んでどのペルソナをつけるかは、各自の経験に照らし、合理的判断によって決せられる。事の達成に最適なペルソナをもっていればそれを着用すればよし、素を貫く派ならばそれもよし、いずれにせよ事の達成確率から合理的な解は、少なくとも理性的には導かれうると思う。一方平時においていかなるペルソナをつけるかは、成長の期待値と、素との乖離による精神的負担との衡量ではないかと思う。

2009/10/8

 感動とは異なるが、こういった心の不随意的な挙動に際して、別言すれば、心のアンテナが信号を感知したとき、表現したい、あるいは記録したい、という本能的欲求を自覚する。詩人であれば詩を吟じ、音楽家であれば作曲に勤しむのだろう。それは表現欲の実行であり、記録願望の実現である。僕はこうやって脳内をありのままに記録するしかないが、この感覚を音にして聴覚的に表現記録できる才がある人は羨ましい。とはいえ、現代は一般市民も容易に視覚的に記録することができるのだ。そこで、パチリ。

2009/10/9

 人には状況を受け入れるために正当化する能力がある。利する側はもちろん、害される側も、状況が不可避とみるや、その正当化を試みるのは防衛本能といっていい。そうやって、両者に共通見解すなわち常識が生まれ、争いは一見鎮静化し、状況が繰り返される結果、差別は固定され「文化」となる。そういった中で「文化」を疑い、あるべき姿を探求し、現状を糾弾することはいかに勇気のいることか。そして、このようにして固定された「文化」を是正することはいかに困難か…
 …公民権運動は、しかし、成功した。そこから学ぶべきことは多い。その成功に、最高裁判決が大きな力を果たしたことは疑いない。そこには、単純な憲法解釈ではなく、司法権が全力で社会のあるべき姿を模索した結果が凝縮されている。最高裁は争いの終局的な解決として判決を下すが、実は、真の戦いはそこから幕をあげたのだった。そこには、キング牧師をはじめとしたリーダーの活躍がある。法を武器に、あるいは盾に戦う専門家が弁護士であり、その後、あるいはそれを含めた全体をプロデュースしあるべき社会を実現するのがリーダー(活動家、日本では期待薄だが政治家がもっとも近い職業となろう)であろう。後者に、憧れる。そういった仕事に心血を注ぐ自分に期待する。素養を磨きたい。