司法修習生に対する修習資金の給与制を維持すべきか否か2

はじめに

 続きを書く、と宣言してしまったので書く。もっとも、今年度の貸与制への移行はほぼ確実となったし、そうなる以上、来年度から給費制に戻ることも難しいとは思う。が、おかしいものはおかしいので、なぜ給費制度を維持すべきなのかについて、意見を書いておく。

論点の整理

 「司法研修所で一年間の司法修習を義務付けられる者(修習生)に対して税金を用いて給与を支払うべきか否か」ということが議論されているが、これは以下のように3つの論点に分解すると分かりやすい。というか、そうしないと次元のズレた議論となりうるし、実際ズレた議論をよく目にする。

  1. 法曹資格を取得するために司法試験合格の他に司法修習なる研修が必要なのか
  2. 司法修習が必要だとして国家機関たる研修所で行うべきか(民間でいいのでは?)
  3. 司法修習に対して対価(給与)を支払うべきか

 論点1と2は議論の余地はあるものの、現実的には結論において世論に大きな対立はないところ、それを前提に、論点3を考えれば、いたって自然に給費制を維持すべきとなるのではないかということを以下に書く。議論が迷走するのは、論点1や2の話と論点3の話をごっちゃにしているか、又は給費制の維持の根拠をやや説得力の弱いところに求めてしまっている(お金持ちしか弁護士になれないなど)からだと思われる。

論点1:司法修習の必要性

 そもそも、司法修習という研修期間は不要ではないかという議論がある。これは、司法改革の流れの中で提唱されたもので、法科大学院の教育機能を信頼(重視)する立場である。法科大学院で実務教育まで行うのだから、その後、再び司法修習を行う必要はないとする。当然ながら、法科大学院関係者にその論者が多い。しかし、最高裁としては司法修習を残したいらしく(裁判官をリクルートする期間でもあるし)、結局司法修習という制度は残ることいなった。そういった経緯があるので、例えば法科大学院で要件事実の授業があったし司法試験でも要件事実が出たのに、司法修習で再び(同じ教科書が配られて)要件事実を学び二回試験で要件事実の問題を解かねばらなない、という謎なことになっている。
 では、やはり教育機能は法科大学院に任せて、司法修習は廃止すべきなのだろうか。これについて、私は廃止すべきではないと考える。法科大学院が、従来の司法修習の役割を担うレベルの教育をなすことは不可能なのが現状だからである。構想段階ではできるはずだったのに、なぜできないのか。その理由は、法科大学院の教授が、あるいは学生が想定よりも無能だったからではない。構想段階に比べて、司法試験合格率が著しく下がったからだ。そもそも司法修習は、二回試験があるとはいうものの、二回試験自体はほとんど合格するため、じっくりと腰を据えて実務を学ぶ期間である。法科大学院でもプロフェッショナルスクールとして、まじめにやれば司法試験に合格するという制度設計通りであれば、そういった教育ができたと思われる。しかし現実には、3割を切る合格率であり、大学別の合格率が出され、これが低ければ翌年度の生徒が減るという状況である。腰をすえて実務教育を行う法科大学院が多数に上るわけはなく、多くの法科大学院の教育内容が司法試験突破のためのものになってしまうことは、やむを得ないことであると言わなければならない。
 そういう現状にある以上、司法修習を廃止すべきではない。ましてや、司法修習には、検察修習や裁判修習など法科大学院で代替するには限界のある教育も存在するから、ますます廃止すべきではないだろう。そして、最も重要なことは、上で述べたように司法修習の要否については議論の余地があるものの、司法修習が必要である点については大きな異論は見られないということである。少なくとも、一般に「給費制の維持か貸与制への移行か」というとき、司法修習が必要であることは前提とされている。司法修習不要説を論じることは構わないが、それはそもそもの前提を争っているのであって、一般的な「給費制の維持か貸与制への移行か」といった議論とは違った次元での反論であるということを忘れてはならない。

論点2:司法修習は国営でやるべきか民営でやるべきか

 司法修習が不要であるならばそもそも給費制か貸与制かという問題は消滅するわけだが、一般的には必要とされているため、なお当該問題を検討する意味がある。さて、司法修習が必要であるとして、現行のように国営で行うべきなのだろうか、それとも民営に委ねるべきなのだろうか。
 専門職の中で研修が必要なものとして、公認会計士資格と医師免許がある。いずれも、給費制か貸与制かという論点の中で、よくひきあいに出される「他の資格」である。公認会計士は、公認会計士試験合格後、日本公認会計士協会が実施する実務補習を3年間履修し必要単位を収めることで、資格を取得できる。民間で働くことで実務経験を積む。医師の場合は、国家試験合格によって医師資格を得るが、医師法によって、診療に従事するためには2年間の研修を経なければならない(研修医)。こちらも、働くことで実務経験を積み、一人前になるという研修体制である。
 法曹資格も、公認会計士資格や医師免許と同じく、実務を通して研修して一人前になることとされ、そのために司法修習を行う。問題は、これを現行のように国が行うか、公認会計士や医師のように民間が行うか、である。これについては、私は民間が行ってもよいのではないかと考えている。公認会計士資格を参考にするならば、日弁連が弁護士に修習を義務付け、弁護士志望の者は弁護士事務所で1年間の研修をした後に、弁護士になる(裁判官や検察官は国の研修期間で研修する)、という制度設計も十分にありうると思う。もっとも、現行の司法修習制度にも利点はある。法曹になる前に、弁護士・検察・裁判官という法曹三者全ての実務を全員が経験することは、確かに有意義だろう。
 このように、司法修習を民間で行うか国営で行うかについても議論の余地があり、私見は民間でもよいと考えるが、重要なことは、一般に「給費制の維持か貸与制への移行か」というとき、司法修習を国営で行うことは前提とされている、ということである。民間でやればいいという意見もあるが、それがもし通るならば給費制維持を主張する論者のうちの何割かは賛成するだろう(私も賛成する)。民間で働きながら行う以上、賃金として給与がでることは当然だからである。あくまでも、当該論点は国営で司法修習を行うことを前提とした場合に発生するものであることを忘れてはいけない。

論点3:司法修習生に対して税金により給費を行うことの是非

 論点1において司法修習が必要であると結論し、論点2においてこれを国が行うべきだと結論すると、論点3が発生する。すなわち、司法修習生は一年間研修(司法修習)に専念するわけだが(それゆえ兼業が禁止される)、それに対して対価を与える必要はあるか否かである。国が法曹を研修するのだから、仮に修習生に対価を与えるならばそれは国庫(税金)から支払われることになるのが素直である。
 そして、その必要性は自明であるように思うのだが、あえて説明するならば、司法研修が義務であること(生活の糧を得るための兼業が出来ない)、実務を通して研修する以上労働の側面が否定できないこと(例えば、弁護士の下で依頼者の要望のメモをとるなど)からすれば、これを無給でやれというのは、他の資格(前述の公認会計士資格や医師免許)における研修と比較しても甚だ不合理だからである。
 これに対し、後で稼ぐのだから無給でもいいといった反論が考えられるが、当たり前だが、それはおかしい。後で稼げない人もいるではないかといった再反論を出すまでもない。何故に資格取得のために強制される一年間が無給なのかということが問われているのであり、後の事情でその正当性が変化する類のものではないからである。

その他の根拠として挙げられるもの

 以上縷々述べたように、司法修習が義務として課されるものである以上、対価が生じるのは当然である(国営で研修を行うという選択をしたからといって対価は与えなくてよいとなるわけがない)というのが、給費制を維持するべき最大にしてほぼ唯一の根拠であるように思う。
 これに対して、日弁連を含め、以下のような根拠を主張する論者がいるが、それは根拠としてちょっと弱いのではないかと思う。そして、大手新聞などで痛烈に批判されるわけだが、それはその根拠に対する批判であって、上で述べた最大の根拠はなお強い説得性をもっていると思う。

  • 法曹志願者の偏在化

 まず、法曹志願者の偏在化は、「お金持ちしか法曹になれない」というフレーズで表現されることが多いが、そもそもそのフレーズがミスリーディングである。そう言ってしまうと、奨学金制度を充実させれば貧乏人でも法曹になれるといった反論がなされるし、それは大変説得的である。問題は、割合なのであって、「法曹志願者の金銭的バックグラウンドが偏在する」というべきではないか。
 この弱い根拠を、なお頑張って補強するならば、人権の護り手としての法曹の特殊性を強調するしかないだろう。法曹は(しばしば人権が脅かされる)「弱い人々」を護り(しばしば権力側となる)「強い人々」と闘うことが想定されるところ、「弱い人々」には経済的弱者が当然含まれるから、それに親身になって話が聞ける法曹が求められる。しかるに、法曹志願者が偏在し、金持ちが多くなると、そのような法曹の本来的使命を果たしうる人材が減ってしまうのではないか、という問題が生じる。よって、給費制は維持すべきである、と。
 突っ込みどころ満載である。やはり、あまり筋のいい主張ではないように思う。お金持ちだって、心優しい人、正義感のある人はいるわけだからね。

【追記】(2010.11.23)
 修習辞退者の声を読んで、日弁連の主張も説得力があると思ったので、この点は考えを改める。

  • 法曹の公益意識の低下(1)

 給費という形でお金をいただく、つまり社会に育てられて法曹になるのだから、そこで公益に対する恩返をしようと思うのだと。つまり、給費制は法曹の公益性を支えているのだから、廃止してはいけない、という主張もある。
 これも、突っ込みどころ満載である。お金をもらうから、公益性が生じるのではない。例えば弁護士の多くは、そもそも困ってる人を助けたい、と思って法曹を目指している。私もそのつもりだが、その志について、今回貸与制になったからといって、一ミリもゆらぎはない。社会に対する恩返しという動機はないではないが、それは小さい頃からずっとお世話になってきたのであって、修習期間にお金をくれたからどーのこーのという話ではないように思う。

  • 法曹の公益意識の低下(2)

 もっとも、公益性は法曹の本来的要請である(つまり給費によって生じるものではなくもともとあるもの)が、司法修習生の経済状況(司法修習開始時点で少なくない額の借金を背負っている)をみるに、さらに修習期間中も借金を重ねれば、経済的困窮が進み、自己の経済的利益をまず確保せざるを得なくなるから、結果的に法曹の公益性が低下してしまうとの主張もある。
 これは大変説得的である。しかし、これについては、大手新聞で何度も報道されたように、「公益活動を行う弁護士について貸与金の返済を免除するなどの方策で足りる」という反論が、さらに説得的であり、これに対する再反論を今のところ私は思いつかない。「公益性、つまり国民のため、というのであれば、民事扶助などの制度にお金を使うべきでないか」といった反論も、とても説得的である。
 したがって、この根拠で給費制の全体的な維持を主張することは厳しいのではないかと思う。

  • 結局

 司法修習は、法曹資格を得るために必須であり、生活の糧を稼ぐための兼業も禁止される以上、そこでの研修(しかも実務において労働の側面をゆうする研修である)に対して、対価が発生するのは当然である。一年もの間、何らの対価もなく人を何かに従事させる(専念させる)ことは許されないのではないか、というのが、素朴ながら最大にしてほぼ唯一の、給費制を維持すべき根拠であると考えます。

(以上)