法律科目と大学受験科目

 先々日、午後全部を遊び倒したことを後悔しつつ、憲法なる学問と乳繰り合っている。大学レベルの科目群を、高校レベルの科目群で近似することは、そもそも無理があるのだが、あえて言うならばこうである、と入学前に聞いた。
 すなわち、憲法≒国語、民法≒社会、刑法≒数学であると。実際に、1年半戯れてみた感想としては、当たらずとも遠からず、といった感じだ。まず、前提として、高校レベルの科目群で法律科目を近似すると、「国語」となる。いかに暗記が多いとはいえ、解釈が全てである。暗記する対象は、その解釈の類型あるいは、解釈を(答案で使えるように)文章化したものに過ぎない。その点で、全ての科目は、国語力を出発点としている。
 その上で、なお、何に近いかといえば、すなわち、国語という島の中にいることを前提に、その中心部から一歩ずれているとすれば、それはどの島(科目)の方へか、という議論をすれば、確かに上記のようになろう。
 すなわち、刑法(刑事系といってもよい)は理論的側面が強く、検察官による実務にゆらぎがほとんどない点からして、学者の解釈の幅も相対的には狭い。解釈に幅が見られる場合、実務との距離から学生としては無視せざるをえないか、あるいは実務上ほとんどありえない場合について喧々諤々議論されており、そちらを理由に、やはり無視せざるをえない。結局、記憶量は減り、論理力勝負に純化されていく点で、数学に近いとの私的には首肯できる。
 次に、民法は、カバーしている範囲が膨大である。よって、あらゆるところに解釈があり、確かに、学者の中では全ての解釈が有機的に連関しているのだろうが、正直、重要論点を除き、その根底に流れる一貫性を味わうには到底至っておらず、結局、数多ある論点を判例と、対立説のうち個別的判断により直感に合致すると思われる対立説をしこしこ記憶するという作業が繰り返されている。もっとも、それさえ出来ていないが。その点で、すなわち、理想系はさておき、現実問題として、学習を進める感覚としては、膨大な量をシコシコ覚えていき、たまに有機的連関構造を発見すると、メモリーがセーブできて嬉しいね的なところが、社会に似ているのではと思う。
 最後に、憲法であるが、これはもう、やりたい放題である。刑事系と異なり、極めて抽象的な議論が展開され、判例もまた抽象的な文言のまま判決を書く。すると、具体的適用場面まで固まっている規範というものはなかなか出ず、つまり、今後、どうとでもなりそうな点が困った点である。なので、よっぽど変な学説でない限り、ありえないとは言えず、一応見ておく必要がある。さらに、判決が抽象的な文言を繰り返すものだから、ここぞとばかりに、学者勢がその解釈を試み、元の抽象性ゆえ、多くの論点で、百花繚乱という事態に発展する。咲き乱れるのは結構だが、それを一段とスペックの低い学生が理解しようとする段階(←いまココ)に到っては、惨禍でしかない。
 つまるところ、憲法をやってみたら、ぜんぜんわかんなかったよ、というお話。いやはや、どないやねん、これ。