最近お疲れです。体がだるくて起きる気になりません。今日は学校行って、レポ2つやりました。ということで、学校の勉強系は全て終了。今から隣にいるむっしゅ君(男前)と一緒に花火にいってきます。超きれかった。行ってまじよかった。そして、ゆかたを貸してくれた南出さんくす!おしゃれなおじいちゃんのゆかたを満喫させていただきました。その後軽く飯食ってからむっしゅんちへ(歩いたらめっさ遠かった)。うらっちと俺とむっしゅで朝までトーク♪「XY騒動」やら「虚心坦懐な考察」やら「手のひらCサイズ」やらまー徒然としゃべりました。楽しかった!また行きたいです、むっしゅ先生。中兎で飯くってから家に戻った。

「知る」ことは損なときもある。

知ることは確かに損なときもあるよなーと思う。だから「周知させる」というのはかなり戦略的な行動だと思うし、俺は戦略的に使っています。そのとこによってライバルは牽制できるし、仲間は応援してくれるし、自分自身にもはや後には引けない感を生み出すこともできるからです。論理的には、結果としてお互いが同じ情報を出し合えば、同じような損得を受けるとは思うんだが、経験的には最初にカミングアウトしたほうが圧倒的に有利だと思う。その時点でひよっているか否か、という違いに由来するんだろうけどね。いわゆる言ったもんがち。ところで俺の場合は、特殊ケースなのかもしれないが知ること自体は全然よい(気にしつつもぶっこめる)のだが、別のケースにおいて俺が「知っている」ことを相手が「知る」時が微妙。確かにこいつは知らないだろう思っていた人が知っていたら「は?」てなるのかもしれないが、それはそれを悟らせた当人が悪いわけで俺に当られても困る。むしろ、俺は某カップルの時もそうだが「知っていてもまるで知らないかのように空気のように振舞って」いるのだからそこを誉めてもらいたいぐらいです(この日記みたいなことも、知っていることを知られるまでは控えているわけだし)。こういったややこしいことになるくらいなら本当に何も知らないほうが吉な気もしますが、知りたい欲望はなかなか尽きず、ついつい知ってしまうんですよね。ただ、俺は当たり前のごとく「俺に知られて、『は?』」な人よりかは「俺に相談してくれた人」を応援するわけですよ。もちろんね。しかし、もしかしてその両方が知り合いだったらとか想像すると悩むわけですよ。知り合いのうち、少なくとも一人は幸せになれないんだから、後者をガチで応援したくても出来ないんですよ。だから、心で応援するんと思いますね、きっと。がんがれ!ってね。